十日町市

十日町市はなだらかな山並みに囲まれ、信濃川と両岸に広がる河岸段丘をもつ十日町盆地と東頸城丘陵の山間にある松之山郷で構成されています。太古からの農業と豪雪で産業や文化が育まれ、魚沼産コシヒカリ・そば・酒・着物の産地となりました。世界有数の豪雪地であることを逆手にとり国内外からの来訪者でにぎわう冬季イベントが数多くあります。
概要
- 面積
- 590.39km2
- 人口
- 46,964人(2023年9月1日)
- 市の木
- ブナ
- 市の花
- ユリ
- 地図
歴史
縄文人たちは狩猟採集を営みながら縄文土器の最高傑作と言われる火焔型土器を生み出しました。雪深い地域で風土で培われた織物技術は時の権力者の庇護のもとで地場産業として発達し、高級麻織物の越後縮の三市場として繁栄し、麻織物から絹織物に移り変わり現在に伝わります。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
東頸城丘陵などの段丘上のあちこちで数万年前の石刃などの旧石器が見つかります。壬遺跡や久保寺南遺跡など300を超える縄文遺跡が残され火焔型土器が大量に出土しています。弥生時代の遺跡はわずかで城之古、牛ヶ首、干溝など数か所に見られるだけです。

清津峡
黒部峡谷(富山県)、大杉谷(三重県)とともに日本三大峡谷のひとつで、清津川の中流域に位置する柱状節理を形成する石英閃緑ひん岩と緑色凝灰岩が激流に磨かれた渓谷です。

田代の七ツ釜
苗場山系から流れ出る釜川の渓流に点在する七つの滝つぼで、右岸が断面層、左岸が切り立った縦層という学術的にも大変珍しい景観です。

田沢遺跡
縄文時代草創期の遺跡で、隆起線文土器、爪形文土器、押圧縄文土器が主に出土して河川での漁労が集中的に行われたと考えられています。

笹山遺跡
縄文時代中~後期の集落跡と鎌倉時代から戦国時代の居館跡が見つかり、縄文時代中期中葉の火焔型土器が出土しました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代中~後期と奈良・平安時代の集落跡である馬場上遺跡から、竪穴住居50棟、掘立柱建物8棟などが発見されています。
奈良時代、平安時代
冬季に雪に閉ざされてしまうことから古くから麻織物の生産が盛んで、正倉院の御物に越後の麻布が納められました。治承4年(1180年)に平氏一門の城資長が越後守に任ぜられて支配しますが、まもなく城氏は木曾義仲に敗れて没落していきました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府の知行地になりましたが、やがて上野国の大井田氏、羽川氏、中条氏、下条氏、小森沢氏など新田氏一族が進出して勢力を張りました。大井田氏らは元弘3年(1333年)の新田義貞の倒幕挙兵に馳せ参じ、南北朝の動乱においても一貫して南朝方に与しました。

大井田城跡
新田一族の大島義継が拠点として大井田氏と名乗りましたが、新田氏の没落で大井田氏は没落して上杉氏麾下となり、大井田景能は上杉景勝の養育係を務めました。

松之山温泉
南北朝時代に開湯したとされる塩分が強い温泉で、有馬温泉、草津温泉と並ぶ日本三大薬湯のひとつで冬でも湯冷めしないとされます。
室町時代、安土桃山時代
十日町市はおよそ関東管領上杉家と越後守護上杉家の所領となりますが、守護上杉家の家臣府内長尾氏が守護代として実権を握りました。長尾為景は守護上杉房能を松之山に追い込んで自害させ、擁立した上杉定実の実権を奪い実質的な国主となり麻織物の原料である青苧生産を奨励しました。長尾為景の子である長尾景虎(謙信)は関東管領職を上杉憲政より譲り受けて上杉の名跡を継ぎ、三国街道を抜けて関東に出兵するようになります。上杉謙信とその養子上杉景勝の代に上杉氏の威勢は伸長し、慶長3年(1598年)に会津に移封されるまで豊臣政権の重鎮として越後に君臨しました。
江戸時代
上杉氏会津移封後の越後には堀秀治が封ぜられ、次いで江戸時代になると松平忠輝の支配を受けます。延宝9年(1681年)に高田藩主松平光長が改易されてから高田藩領から幕府領となりました。享保9年(1724年)に魚沼郡の大部分は会津藩の預所となり、江戸時代を通じてほとんどを会津松平家の支配下に置かれました。小千谷、堀之内とともに高級麻織物・越後縮の三市場として繁栄しましたが、漸次衰退して養蚕と絹織物が勃興してき、宮本茂十郎の高機などで麻織物から絹織物へと転換していきました。天明元年(1781年)には田沢の村山五郎兵衛の願い出から桔梗ヶ原の新田開発が行われました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治6年(1873年)に新潟県の体裁が整えられ、昭和29年(1954年)に市制を施行しています。明治20年代に染色や撚糸技術の改良やドビー・ジャガード機などの新機械の導入により十日町織物が進歩を遂げますが、戦時の奢侈品禁止令で十日町織物産地も大きな打撃を受けました。