歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

岐阜市

岐阜県岐阜市の夜景

岐阜市は岐阜県の中南部に位置する岐阜県の政治・経済・文化の中心地で、日本三大清流のひとつ長良川が貫流しています。日本三大清流の一つである長良川は美しい景観を生み出し、伝統漁法である長良川鵜飼は夏の風物詩として有名です。

概要

面積
203.60km2
人口
399,935人(2021年11月1日)
市の木
つぶらじい
市の花
サルビア
地図

歴史

岐阜は織田信長が井口から岐阜に改名したことに始まります。織田信長は岐阜城を中心に天下統一を目指しましたが、覇権は豊臣秀吉から徳川家康へと移り変わりました。江戸時代に岐阜町は尾張徳川領として商工の町として発展し、加納町は加納藩の城下町で中山道の宿場町として発展しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

日野遺跡からナイフ型石器が見つかりました。縄文時代の御望遺跡や、梅林・華陽・長良地区などの遺跡に人の営みが見られ、弥生時代後期の瑞龍寺山頂遺跡から漢王朝の青銅鏡である内行花文鏡が見つかりました。

岐阜県岐阜市の長良川中流域における岐阜の文化的景観

長良川中流域における岐阜の文化的景観

岐阜市周辺は長良川の美しい景観が残されています。川と共に生き、川の恵みを活かしてきた人びとの歴史や文化が今に伝わります。

古墳時代、飛鳥時代

白鳳時代になると各地の豪族たちが寺院を建立するようになる。市内では、厚見寺跡、大宝廃寺、鍵屋廃寺、長良廃寺と現在呼ばれる遺跡である。

岐阜県岐阜市の琴塚古墳

琴塚古墳

5世紀後半の前方後円墳で景行天皇の妃である五十琴姫の墓と伝わり、周囲に内濠と外濠の二重の濠が巡らされています。

岐阜県岐阜市の厚見寺跡

厚見寺跡

白鳳期に創建されたと考えられる寺院で、各務原市の山麓にあった柄山古窯で生産された瓦が出土しています。

奈良時代、平安時代

美濃国は畿内と東国を結ぶ交通の要衝で、茜部荘、平田荘、市橋荘、鵜飼荘、芥見荘などが成立して豊かな穀倉地帯を形成しました。荘園は美濃に土着した源氏系の支族が荘官となり勢力を広げました。

岐阜県岐阜市の老洞・朝倉須恵器窯跡

老洞・朝倉須恵器窯跡

7世紀末から8世紀中頃にかけて機能していた古代の美濃地域最大の古窯群で、美濃焼の刻印がある須恵器は平城宮跡や美濃国分寺跡から出土しています。

鎌倉時代、南北朝時代

康永元年(1342年)に土岐頼康が美濃国の守護となりました。土岐氏は一時的に美濃のほか尾張国や伊勢国の守護を兼任しました。

室町時代、安土桃山時代

寛政元年(1460年)に斎藤妙椿が美濃国守護代となり強大な力を得ました。土岐氏の家督争いに端を発し、明応4年(1495年)の船田合戦と翌年の城田寺合戦が起きました。大永5年(1525年)長井長弘と長井新左衛門尉が土岐氏に対し反乱を起こし下克上を達成すると、長井新左衛門尉は斎藤道三を名乗り井口と呼ばれた稲葉山山麓に城下町を形成しました。

織田信長と岐阜城

斎藤道三は子の斎藤義龍と反りが合わず、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで斎藤義龍が斎藤道三を討ちました。永禄10年(1567年)に織田信長は斎藤義龍の跡を継いだ斎藤龍興を追放して井口を岐阜と改め岐阜城を中心に天下統一を目指しますが、本能寺の変で討たれて豊臣秀吉が信長の孫である織田秀信を擁して台頭しました。慶長5年(1600年)に岐阜城主である織田秀信は関ヶ原の戦いで石田方につきますが、徳川方から攻められ岐阜城は落城しました。岐阜城は廃城となり、慶長7年(1602年)に加納城の築城が始まりました。

岐阜県岐阜市の智通光居墓

智通光居墓

薮田領主小野氏、鏡島領主石河氏などの帰依を得て立政寺を建立し、応永10年(1403年)に死去して立政寺に葬られました。

岐阜県岐阜市の土岐成頼墓

土岐成頼墓

美濃国8代守護大名で応仁の乱で山名方として参戦し、11年も京都で戦い続けました。その間に美濃は斎藤妙椿が強力な軍事力と富を得ました。

岐阜県岐阜市の斎藤妙椿墓

斎藤妙椿墓

守護代として土岐氏を凌駕するほどの勢力を築いて斎藤氏の勢力基盤確立し、土岐成頼の菩提寺として瑞龍寺を建立しました。

岐阜県岐阜市の悟渓国師墓

悟渓国師墓

応仁元年(1467年)に美濃守護代・斎藤妙椿の援助で瑞龍寺を開山し、明応9年(1492年)に没して瑞龍寺に葬られました。

岐阜県岐阜市の岐阜城跡

岐阜城跡

鎌倉時代に二階堂行政が築城した稲葉山城は、斎藤氏などが居城としたのち、織田信長が支配下に置いて岐阜城に改称して天下布武を掲げました。

岐阜県岐阜市の加納城跡

加納城跡

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いののち、徳川家康が豊臣氏を警戒して建てた平城で、廃城とされた岐阜城の建造物が移築されました。

江戸時代

徳川家康は岐阜町を直轄地にして美濃国奉行を置き、長良川、木曽川、揖斐川の水運のほか東美濃の山林、和紙の産地として商業が栄えた岐阜を抑えました。加納城を中心とする加納藩は中山道と美濃路沿いに発展し、多くの旅人や商人でにぎわいました。

岐阜県岐阜市の獅子庵

獅子庵

蕉門十哲のひとり美濃派俳諧の始祖・各務支考の住居跡で、正徳元年(1711年)に獅子庵を建てて晩年を過ごしました。

岐阜県岐阜市の宝暦治水工事義歿者墓

宝暦治水工事義歿者墓

宝暦治水工事を監督していた内藤十左衛門の墓で、宝暦4年(1754年)に工事不十分の罪が主君に及ぶのを防ぐため切腹しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で岐阜県となり、明治22年(1889年)に岐阜市が誕生しました。明治15年(1882年)に岐阜公園内の岐阜中教院で演説していた板垣退助が相原尚褧に刺される岐阜事件が起き、板垣死すとも自由は死せずの名言が生まれました。明治24年(1891年)の濃尾地震、昭和20年(1945年)の空襲で市街地の8割が焼失、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風などで大きな被害を受けつつも復興を遂げて現在に続きます。