歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

富山市

富山県富山市の富山城

富山市は富山県のほぼ中央から南東部分までを占め、北は富山湾に面して三方を雄大な立山連峰などに囲まれます。夏は雨が少なく冬は寒さの厳しい気候ですが、立山連峰の雪解け水が肥沃な富山平野を形成しています。日本海側につけられた北陸道や飛騨街道が交差する交通の要衝として古くから栄え、越中売薬などの文化が各地に広まりました。

概要

面積
1,241.77km2
人口
409,486人(2022年9月1日)
市の木
ケヤキ
市の花
ヒマワリ
市の花木
ツバキ
地図

歴史

室町時代に畠山氏の守護代である神保氏が富山城を築いて統治を進めましたが、古くから交通の要衝であるため上杉謙信や一向一揆などが侵攻して激しい戦いが繰り広げられました。江戸時代は加賀前田氏の統治下となり、前田家の支藩として富山藩が成立して越中売薬などの文化が生まれました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代に富山平野を貫流する神通川流域から人びとが生活を営み、縄文海進で大きな発展をみました。放生津潟の縁辺では蜆ヶ森貝塚や小竹貝塚など汽水性のヤマトシジミを主体とした貝塚が営まれました。呉羽丘陵の北代遺跡や射水丘陵の開ヶ丘狐谷Ⅲ遺跡など集落が営まれるようになりました。

富山県富山市の直坂遺跡

直坂遺跡

神通川右岸の舟倉段丘上の南端にある旧石器時代から縄文時代の集落跡で、ナイフ形石器や彫刻刀形石器のほか石組炉が見つかりました。

富山県富山市の北代遺跡

北代遺跡

県内最大級の縄文時代中期の集落遺跡で、高床建物4棟、竪穴住居78棟が見つかり、北の谷から湧き出る水は生活に利用されていました。

富山県富山市の東黒牧上野遺跡

東黒牧上野遺跡

常願寺川左岸に形成された河岸段丘上に位置する縄文時代中期の集落遺跡で、大型住居跡を含む竪穴住居が確認されました。

古墳時代、飛鳥時代

呉羽丘陵や羽根丘陵に出雲と関係がある首長が特異な形の四隅突出型墳墓を造営し、やがて前方後方墳に発展して勅使塚古墳や王塚古墳が生まれました。神通川西岸では射水臣氏という古代氏族が有力な勢力を持ちました。

富山県富山市の王塚・千坊山遺跡群

王塚・千坊山遺跡群

弥生時代終末期に大規模な集落遺跡である千坊山遺跡が形成しました。その近くには古墳時代前期に大型の前方後円墳である王塚古墳が造営されました。

富山県富山市の勅使塚

勅使塚

3世紀末の県内最古の大型前方後方墳で、後方部を高く築く古墳時代初期の特徴が現れた婦負地域を統治した首長の墓とされています。

富山県富山市の金草第一古窯跡

金草第一古窯跡

7世紀後半の半地下式登り窯で、出土した須恵器の杯蓋に残るへら書きされた線刻文字は富山県内で最古級の文字とされます。

奈良時代、平安時代

富山市域は越中四郡のうち婦負郡と新川郡に属しました。8世紀中頃には万葉集で有名な大伴家持が越中国の国司になり多くの和歌を詠みました。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉幕府執権の北条氏の分家筋にあたる名越氏が守護を務め、南北朝時代に桃井直常が越中守護として支配しました。やがて桃井氏や斯波氏との抗争を勝ち抜いた畠山氏が守護職を得ることになります。

室町時代、安土桃山時代

守護代の神保長職が富山城を築きますが、永禄3年(1560年)の長尾景虎の侵攻で城を追われました。一向一揆勢は元亀3年(1572年)に富山城を占拠しますが、天正4年(1576年)に上杉謙信が再び城を奪取しました。天正9年(1581年)に織田信長が越中国をほぼ手中に収めると、富山城は佐々成政に与えられて佐々堤の建設などの治水工事を行いました。佐々成政は本能寺の変で台頭した羽柴秀吉と対立し、のちに降伏して富山城は破却されました。

富山県富山市の安田城跡

安田城跡

羽柴秀吉が越中の佐々成政を攻略するために白鳥城に陣を構えたとき、前田氏の家臣・岡島一吉が白鳥城から移されたとされます。

江戸時代

加賀藩初代藩主の前田利長は、慶長10年(1605年)に隠居するための城として富山城を整備しました。寛永16年(1639年)には加賀藩2代藩主・前田利常が次男の前田利次に与えて富山藩が成立しました。富山藩では薬業や和紙などの産業が奨励され、飛騨街道や北前船航路などの交通・物流網の整備により越中売薬の独特の商法は全国に知られるようになりました。

富山県富山市の富山城跡

富山城跡

天文12年(1543年)に神保長職の家臣・水越勝重が築いた城で、前田利長が整備して前田利次が富山藩を立藩して幕末まで続きました。

富山県富山市の猪谷関跡

猪谷関跡

越中と飛騨を結ぶ飛騨街道に置かれた関所で、寛文7年(1667年)に富山藩が設けたといわれますが、それ以前にも存在していたようです。

明治時代、大正時代、昭和時代

県庁所在地として、また北陸初の水力発電所が建設されるなど、豊かな電力を基盤とした工業のまちとして順調な発展を遂げましたが、昭和20年(1945年)の空襲で市街地は壊滅的な被害を受けました。戦後に都市基盤の整備や産業経済の進展により日本海側有数の商工業都市として発展してきました。

富山県富山市の森家住宅

森家住宅

明治11年(1878年)に建築された北前船主・廻船問屋の家屋で、屋久杉の板戸や能登産黒松の梁など全国各地から取り寄せた建材が使用されています。

富山県富山市の馬場家住宅

馬場家住宅

北前船主・廻船問屋の馬場家は岩瀬五大家の筆頭に挙げられ、9代当主の妻・馬場はるは旧制富山高等学校(現在の富山大学)の設立に巨額の寄附をしました。