三方上中郡

三方上中郡は福井県の南西部に位置し、若狭町のみで構成されています。ラムサール条約に登録された三方五湖、全国名水百選の瓜割の滝、近畿一美しい川とされる北川など水資源が豊富です。鯖街道とも呼ばれる若狭街道は多くの物や文化が行き交い、物資の集積地として宿場町の熊川宿が栄えました。
概要
- 面積
- 178.49km2
- 人口
- 13,730人(2021年10月1日)
- 含む町村
- 若狭町
- 地図
歴史
日本海に面する三方上中郡は若狭街道が通り、日本海と畿内を結ぶ重要な交易路として栄えました。江戸時代には若狭街道に熊川宿が置かれ、物資の集積地として賑わいました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代からの遺跡や古墳が数多く存在し古くから生活が営まれていました。鰣川流域の鳥浜貝塚は縄文時代創成期から前期の集落跡で、ユリ遺跡は縄文時代中期から後期の住居跡や丸木舟9隻が見つかりました。

三方五湖
三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖の5つの湖からなります。ラムサール条約登録湿地にも指定され、水質や深さの違いから湖の色が微妙に違う見え方をします。
古墳時代、飛鳥時代
朝鮮半島や九州への航海の玄関口である若狭湾に面し、近江を経て大和へ至る最短路に位置する立地から、交通の要衝となりました。4世紀前半頃から松尾谷に前方後円墳が造営されるようになり、上中地域は有力豪族が拠点としたと考えられています。5世紀前半には履中天皇が膳臣余幾を若狭国造に任じて、のちの膳臣余幾は朝鮮半島で高句麗と戦いました。膳氏は朝廷に食料を献上していたため、若狭国は御食国として呼ばれることとなります。

上ノ塚古墳
5世紀初めの若狭地方最大の前方後円墳で、盾形の周濠や3段築成の墳丘があり、若狭国造の膳臣との関係が深いとされています。

中塚古墳
5世紀末の前方後円墳と考えられており、中国や朝鮮半島から渡来した出土品が多く若狭の国造膳臣と関係が示唆されています。

西塚古墳
5世紀末頃に造営された前方後円墳で、日本書紀の記載と出土品の符合から膳臣斑鳩が埋葬されていたと考えられています。

下船塚古墳
6世紀中頃の日笠古墳群に含まれる若狭地方最後の前方後円墳で、平行に並んで築造されている上船塚古墳よりも前に造営されたと考えられています。

上船塚古墳
6世紀前半の日笠古墳群に含まれる前方後円墳で、埋葬施設は不明ですが墳丘は茸石・埴輪を置き、周濠を備えていました。
奈良時代、平安時代
律令体制下において、三方郡と遠敷郡に属し、北陸道が開削されると濃飯駅や玉置駅が設置されました。平安時代後期になると有力貴族や寺社の荘園が成立してきました。
鎌倉時代、南北朝時代
建久7年(1196年)に御家人の惟宗氏の一族が地頭職を与えられ、堤(津々見)忠季と名乗りました。堤忠季は若狭守護を与えられて若狭氏も名乗りましたが、建仁3年(1203年)の比企能員の変に連座して解任されて伊賀光宗が入りました。遠敷郡太良荘は稲葉時貞が治め、大飯郡は南北朝時代に本郷貞泰や若狭光忠が治めました。
室町時代、安土桃山時代
一色氏が若狭国守護になる頃に若狭光忠が三方氏を名乗り支配しました。永享12年(1440年)に武田信栄が若狭守護となると、三方郡司として熊谷氏が入りました。永禄11年(1568年)に武田元明が越前国守護の朝倉義景の庇護下に置かれましたが、織田信長の侵攻により朝倉氏が没落して織田家家臣の丹羽長秀が支配しました。豊臣政権下では浅野長政が配されたのち、文禄2年(1593年)から木下勝俊が入部しています。
江戸時代
関ヶ原の戦いで西軍に与した木下勝俊は改易されて京極高次が若狭国主となり、寛永11年(1634年)に酒井忠勝が入部して小浜城を拠点に小浜藩を立藩しました。若狭街道の宿場町である熊川宿は物資の集積地として番所が置かれました。天保年間(1830~44年)には福井梅の栽培が始まりました。

若狭熊川宿
鯖街道とも呼ばれる若狭街道にある宿場町で、番所が設けられて物資の集積地となり、寒村から宿場町へと変化を遂げました。

瓜割の滝
宝暦10年(1760年)の拾椎雑記に瓜も割れるほどに冷たいと記される清水で、養老年間から神泉と尊ばれてきました。
明治時代、大正時代、昭和時代
平成17年(2005年)に三方郡三方町と遠敷郡上中町が合併して三方上中郡若狭町が誕生しました。