和歌山市

和歌山市は紀伊半島の北西部に位置し、北は和泉山脈の山並みが広がり紀ノ川が貫流して紀伊水道に流れ込みます。気候は瀬戸内気候に属して温暖で雨量が比較的少なく、年間を通して過ごしやすいのが特徴です。紀州徳川家の城下町として栄え伝統文化や古い町並みが残り、現在もなお和歌山県の経済や文化の中心です。
概要
- 面積
- 208.84km2
- 人口
- 354,635人(2021年11月1日)
- 市の木
- クスノキ
- 市の花
- ツツジ
- 地図
歴史
古代国家に材木を供給する地域から木の国と呼ばれ、これが転じて紀伊国となりました。紀ノ川下流域の土豪や有力農民らが雑賀一揆として地縁的な組織を形成して織田信長や豊臣秀吉を苦しめました。江戸時代に徳川御三家のひとつ紀州徳川藩の膝下として和歌山城と城下町の整備・拡張が行われ、明治初期には全国8番目の大都市となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代のナイフ形石器が見つかり、縄文時代には禰宜、鳴神、吉礼、岡崎などで貝塚が作られました。弥生時代には平地を開拓して太田・黒田遺跡などの集落を築きました。

鳴神貝塚
縄文時代早期~晩期にかけて存続した集落遺跡で、人骨の埋葬された土坑のほか貝塚からシカなどの骨でつくられたヘラや根バサミなどが見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
有力な豪族により古墳が多数築かれ、紀ノ川北岸には渡来系の出土品がある5世紀代の古墳が築かれ、紀ノ川南岸の岩橋丘陵には700基にも及ぶ岩橋千塚古墳群が形成されました。日本神話にある天の窟戸で天照大神を導き出すために作られた神鏡が日前宮に祀られているとされます。

岩橋千塚古墳群
4世紀末から7世紀にかけて造られた全国有数の群集墳で、豪族の紀氏一族が埋葬されたと考えられている700基もの古墳があります。

釜山古墳群
和泉山脈の南麓に築造された5世紀の大型円墳で、鉄製の武器、ガラス製小玉、滑石製小玉などが出土しています。

車駕之古址古墳
5世紀後半の和歌山県最大級の前方後円墳で、装身具類や埴輪が出土したほか、日本列島で唯一となる金製勾玉が出土しています。

大谷古墳
6世紀初めの前方後円墳で、馬具や垂飾付耳飾などの副葬品から大和朝廷や朝鮮半島と深い関係がある人物が埋葬されています。

平井1号墳及び平井埴輪窯跡群
古墳時代後期後半の前方後円墳である平井1号墳の南西下の丘陵裾には、6世紀前後に埴輪が焼かれた2基の埴輪窯跡が残されています。

山口廃寺跡
有力氏族により建立されたとみられる飛鳥時代の寺院跡で、大塔の心柱を受けた痕跡がある礎石が残されています。
奈良時代、平安時代
古代国家に材木を供給する地域から木の国と呼ばれ、これが転じて紀伊国となりました。朝廷権力の力が弱まると寺社や貴族などの勢力が強まり賀太荘や雑賀荘、和佐荘などの多くの荘園が形成され、在地の土豪や日前宮、根来寺、高野山などの勢力が強くなりました。

上野廃寺跡
8世紀末頃に建立された奈良時代末期から平安時代初期の寺院跡で、奈良の薬師寺に似た配置から紀伊薬師寺とも呼ばれています。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉獏は紀伊国守護として湯浅氏を任じましたが、有力な寺社勢力である高野山や根来寺は鎌倉幕府に対して一定の自立性を保ちました。
室町時代、安土桃山時代
紀ノ川下流域の土豪や有力農民らが雑賀一揆として地縁的な組織を形成しました。雑賀一揆は雑賀衆と呼ばれ共同体として活動しますが、経済基盤や宗教基盤は地域ごとに異なりました。石山合戦では多数の鉄砲で織田信長を苦しめましたが、天正13年(1585年)に紀州に侵攻した羽柴秀吉に敗れました。羽柴秀吉は和歌山城の築城を命じ、名勝地・和歌浦から和歌山と名付けられました。
紀州を統治した雑賀衆
雑賀衆と呼ばれる共同体は、雑賀荘、十ヶ郷、中川郷、南郷、宮郷の5つの地域の地侍により形成しました。土橋家率いる雑賀荘と鈴木家率いる十ヶ郷は根来寺の信徒や僧兵たちと海運業を営み、根来衆の津田監物が鉄砲の複製に成功したことで鉄砲の高い技術を持つ戦闘集団となり織田信長や豊臣秀吉を苦しめました。

川辺王子跡(力侍神社)
熊野三山における御子神信仰の王子を勧請した熊野九十九王子の一つで、寛永年間に力侍神社が境内に遷座したとされています。

太田城水攻め堤跡
天正13年(1585年)に羽柴秀吉が雑賀衆が立て籠もる太田城を水攻めの際に築かれた堤跡と考えられています。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで戦功を挙げた浅野幸長が入国しますが、元和5年(1619年)に徳川家康の十男・徳川頼宣が入り和歌山城と城下町の整備・拡張を行いました。紀州徳川家のもとで茶道文化が花開き、国学の本居宣長や大平などが活躍しました。

和歌山城
豊臣秀吉が弟の秀長に築城を命じた城で、徳川御三家のひとつ紀伊家の居城となりました。明治34年(1901年)に和歌山公園として一般公開されました。

四箇郷一里塚
和歌山城の外堀にかかる京橋を起点として1里ごとに移動距離を示す目印として街道の両脇につくられたもののうち京橋に最も近い一里塚です。

和歌山城西之丸庭園(紅葉溪庭園)
徳川頼宣が和歌山城内の西の丸御殿に造営した池泉回遊式庭園で、徳川家以前の城主である浅野家の家老上田宗固による作庭との説もあります。

水軒堤防
紀ノ川の南岸の西浜に築かれた堤防跡で、紀州藩初代藩主徳川頼宣の命を受けて朝比奈段右衛門が工事を担当して造営されました。

岡山の時鐘堂
5代藩主徳川吉宗の時代にあたる正徳2年(1712年)に建立されました。藩士に登城を促すとともに、時刻を城下に知らせる役割を担いました。

養翠園
10代紀州藩主・徳川治宝が西浜御殿の一部として営んだ別邸で、外部から海水を取り入れる潮入式池泉回遊庭園が造営されました。

雑賀崎台場
18世紀後半から19世紀前半に外国船の来航に対処するために紀州藩が沿岸部に築いた土塁・石垣・砲台などの海防施設です。

小原桃洞墓(大恩寺)
紀州藩の本草学の先覚者として名医といわれた畔田翠山をはじめ、山中信古、上辻木海らを輩出し、文政8年(1825年)に没しました。

加納諸平墓
遠江国出身の幕末の国学者であり紀州藩国学所総裁を務めた加納諸平の墓で、安政4年(1857年)と刻まれています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)に和歌山県が誕生し、明治22年(1889年)に市制が施行されました。 昭和20年(1945年)に和歌山大空襲で市街地の7割が焼失する被害を受けました。日本有数の鉄鋼の町として高度経済成長を支えました。
和歌浦
和歌山市南西部に位置する和歌の浦は、万葉の時代より多くの歌に詠まれる景勝地です。和歌浦は都に近いこともあり、聖武天皇をはじめとする天皇は多くの貴族を引き連れて訪れました。

和歌浦(奠供山)
神亀元年(724年)に聖武天皇が行幸した際、和歌浦の景観に感動して守戸を置くことを命じた詔が発せられた場所とされます。

和歌浦(玉津島神社境内地)
神亀元年(724年)に聖武天皇が和歌浦の景観を末長く守り御霊を祀る詔勅を発し、玉津島は万葉の歌枕として都人の憧れの地となりました。

和歌浦(天満神社境内地)
右大臣菅原道真が大宰府に左遷される途中に和歌浦で2首を詠み、江戸時代に林羅山が太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟の一つと称しました。

和歌浦(東照宮境内地)
紀州藩の初代藩主である徳川頼宣公が元和7年(1621年)に創建した権現社で、和歌浦随一の名所として紹介されています。

和歌浦(妹背山と三断橋)
旧和歌浦湾の内海に浮かぶ妹背山には県内最古の石橋である三断橋から渡ることができます。妹背山には多宝塔が祀られています。

和歌浦(芦辺屋・朝日屋跡と鏡山)
紀州藩の初代藩主である徳川頼宣公は、鏡山の東麓に芦辺屋と朝日屋の2つの茶屋を設けました。

和歌浦(御手洗池公園)
御手洗池公園は紀州東照宮、和歌浦天満宮があり、これらとともに和歌浦のひとつに指定されました。

和歌浦(塩竃神社境内地)
輿の窟という岩穴に鎮座する塩槌翁尊を主祭神とする神社で、塩田の塩を焼く釜からこの名が付けられたとされます。

和歌浦(不老橋)
紀州藩10代藩主・徳川治宝の命により造営されたアーチ型の石橋で、肥後熊本の石工集団により嘉永4年(1850年)に完成した。