尾道市
尾道市は、広島県の東南部で瀬戸内海の中央に位置します。ほとんどを山地が占め、平地は尾道水道や御調川沿いと向島、因島や生口島などの島嶼沿岸に限定されます。坂が多い風光明媚な町は文化人を呼び、坂と寺と文学の町と呼ばれるようになりました。
概要
- 面積
- 285.11km2
- 人口
- 128,501人(2021年9月1日)
- 市の木
- サクラ
- 市の花
- サクラ
- 地図
歴史
尾道は大田荘の年貢を運び出す倉敷地として港が整備されて発展していきました。海上交易の要衝として村上水軍を始めとする海賊が活動したのち、江戸時代に貿易船や北前船の寄港地として多くの豪商を生み出しました。豪商たちは神社仏閣の寄進造営を盛んに行い、文化人たちも多く訪れたことから坂と寺と文学の町となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代は寒冷期で海面が低く、瀬戸内海は谷や川と考えられています。縄文時代中期の御調町曽川1号遺跡や高須町天満原遺跡のほか、縄文時代後期から晩期の因島大浜町の大浜広畠遺跡などが残され、弥生時代には御調町高尾2号遺跡のほか、御調町曽川1号遺跡、木ノ庄町市原2号遺跡、高須町天満原遺跡、瀬戸田町神峠遺跡などの低地の集落が造営されています。
尾道市街
旧石器時代の遺跡は発見されていませんが、瀬戸内海の海底からナウマンゾウなどの化石が見られることから、人が狩猟採取していた可能性があります。
太田貝塚
縄文時代中期から後期に造営された貝塚で、貝や石器のほか70体もの人骨が発見されました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代前期に相当する古墳は確認されていませんが、周辺島嶼の満越遺跡から製塩土器が大量に出土しています。古墳時代中期になると松永湾沿岸地域に大元山古墳、黒崎山古墳、有江古墳群、玉比売塚古墳などが造営され、古墳時代後期になると藤井川の上流域に大想田山古墳群、栗原川流域には下組第1号古墳、小路ヶ迫古墳、御調川流域には高尾古墳群や蜈蚣岩山口第 1 号古墳が造営されました。
奈良時代、平安時代
大陸から仏教が伝来すると、大和王権により認められた有力者は古墳から寺院を造営するようになりました。推古天皇24年(613年)に聖徳太子が浄土寺を創建したと言われ、天平元年(729年)に行基菩薩が西国寺、大同元年(806年)に千光寺が創建しています。
倉敷地・尾道浦
大宝元年(701年)に制定された大宝律令における国郡里制下では、尾道市域は備後国御調郡に属しました。尾道浦は小さな集落に過ぎませんでしたが、永万2年(1166年)に平重衡が後白河法皇に大田荘を寄進すると、嘉応元年(1169年)に院庁が大田荘の年貢を運び出す倉敷地として尾道浦を認定して港が整備されました。
浄土寺庭園
推古天皇24年(613年)に聖徳太子が創建したと伝えられ、建武3年(1336年)に足利尊氏が戦勝祈願を行いました。庭園は雪舟の子孫が江戸時代に作庭しました。
西國寺
永保元年(1081年)に再興されますが、このときの西國寺文書に記述される尾道浦が尾道の所見となります。
鎌倉時代、南北朝時代
後白河法皇は滅亡した平家の怨霊を鎮めるため、文治2年(1186年)に太田荘を紀州高野山に寄進し、文永7年(1270年)の記録では尾道浦に入港する船舶から津料(関税)を徴収する港町となりました。発展を続けた尾道浦でしたが、元応元年(1319年)に備後国守護長井貞重が攻め込んで政所や民家を焼き払う事件が起きました。
村上水軍
村上義弘は延元3年(1338年)に後醍醐天皇の皇子懐良親王を迎え入れ、正平20年(1365年)には細川頼之の侵攻で戦死した伊予国守護河野通朝の子徳王丸を保護して北朝方の河野氏を南朝方に帰順させ、のちに伊予国の奪取に加担しました。
瀬戸田港
南北朝時代に小早川氏が生口島を支配すると小早川惟平は生口氏を名乗りました。生口氏は海運業者との関係を強め勢力を拡大して小早川水軍の原型となりました。
雲雀城跡
小早川貞平の孫である土倉夏平が嘉吉3年(1443年)に築城しました。
因島水軍武将の銅像
南北朝時代に南朝方として活躍して海賊大将と呼ばれた村上家8代当主村上義弘は、元弘の乱で北条時直の水軍を破り瀬戸内海での北朝方の勢力を封じました。
長崎城跡
村上師清は因島を横領していた今岡通任を鶴島箱崎浦の合戦で破り、村上又三郎吉豊に因島本主家を譲りました。これ以来、長崎城は村上氏の居城となりました。
室町時代、安土桃山時代
芸予諸島は古くから海賊行為が行われており、村上師清の長男村上義顕は能島村上家、次男村上顕長は因島村上家、三男村上顕忠は来島村上家の祖となり、その他の海賊衆である尾道の宇賀島衆、生口氏などが瀬戸内海の制海権を巡り争いました。小早川氏は因島村上氏と関係を強め、毛利氏の勢力に組み込むことことで大内氏や畿内勢力との戦いを有利に進めました。
木津川口の戦い
能島村上元吉や因島村上吉充などは、天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いで焙烙(火矢)を使用して織田軍を撃破しましたが、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いで九鬼嘉隆率いる大型安宅船6隻の一斉攻撃で敗北しました。織田方の羽柴秀吉は瀬戸内海の制圧のため村上三家を味方に引き入れようと画策し、来島家が織田方に通じたことで毛利方の因島家と能島家が来島家を攻めて追放しました。能島家村上武吉らも天正14年(1586年)に小早川隆景の指示で村上水軍を解体し、天正16年(1588年)の豊臣秀吉が公布した海賊禁止令により完全に活動を停止して毛利氏の家臣団に編入されました。
鷲尾山城跡
足利尊氏に従い転戦した杉原(椙原)胤平の子・杉原信平と為平兄弟は木梨十三か村を与えられ鷲尾山城を築いて居城としました。
青木城跡
第一次木津川口の戦いで織田水軍を壊滅して石山本願寺に兵糧を搬入したた村上吉充は、永禄10年(1567年)に余崎城から移りました。
青陰城跡
因島村上水軍の第一家老が管理してきた城で、慶長5年(1600年)に村上吉充が居城としました。
因島村上氏一族の墓地
因島村上氏の本拠である因島の中庄に造営された菩提寺の裏山にある墓地で、宝篋印塔18基と多くの五輪塔が集まります。
江戸時代
北西部の旧御調郡が広島藩領となり、東部の旧沼隈郡が備後福山藩領となりました。尾道は京都と下関を結ぶ西国街道の宿場町として整備されたほか、慶長6年(1601年)に大久保長安が石見銀山と石見街道を結んだことで産出された銀を大阪に運ぶ積出港となりました。寛文12年(1672年)に西回り航路が整備されると北前船の寄港地となり、米やニシンなどを積んだ船が往来して賑わいを見せました。
奉行所跡
元文5年(1740年)に尾道町奉行に任命された平山角左衛門尚住は翌年に築港計画を立てています。
住吉神社
寛保元年(1741年)に住吉浜を埋立て住吉神社を住吉浜に移転して守護神としました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治12年(1879年)に全国66番目の六十六国立銀行(現広島銀行)が開業し、明治24年(1891年)には福山から尾道を結ぶ山陽鉄道が開通しました。明治31年(1898年)に市制を施行し尾道市が誕生して多くの造船所が開業するなど発展しましたが、太平洋戦争の戦況が悪化した昭和20年(1945年)に向島工場が空襲被害に遭いました。
尾道商業会議所記念館
明治25年(1892年)に尾道商業会議所が設立して黄金期を迎えました。
二階井戸
7割以上が埋立地で地下水に塩味が混じりましたが、尾道出身の山口玄洞が大正14年(1925年)に上水道を完成させるまで使われました。
志賀直哉旧居
志賀直哉は尾道で暗夜行路を著しました。このほか尾道の女学校出身で放浪記を著した林芙美子を始め、多くの文人墨客が足跡を留めて作品を手がけました。
兼吉バス停
大林宣彦監督が映画「あした」を手掛けるなど、多くの映像作品の舞台となり、芸術文化のまちを色濃く残しています。