歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

今治市

愛媛県今治市の亀老山展望公園

今治市は瀬戸内の島々の美しい景観、日本三大急潮の1つとして知られる来島海峡、緑豊かな高縄山系など変化に富んだ地勢をしています。島を取り巻く海は狭い海峡があり、潮流は最大で10ノットになるほど非常に激しく海の難所として知られます。

概要

面積
419.14km2
人口
149,023人(2021年11月1日)
市の木
クスノキ
市の花
ツツジ
地図

歴史

多くの島が狭い海峡を形成した地勢を活かして村上海賊が拠点として勢力を広げました。村上海賊は毛利輝元に加勢して織田信長を破りましたが、豊臣秀吉の海賊禁止令により解散しました。今治を与えられた藤堂高虎は、瀬戸内海に面した海を活かして今治城を築城して今治の町の原型をつくりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の遺跡は数が少ないですが、伯方島の金ヶ崎遺跡や叶浦遺跡などがあります。狩猟や漁猟で生活していた縄文時代の遺跡として、波方町の七五三ヶ浦遺跡や江口貝塚が残されています。弥生時代になると遺跡は増えていき、乃万の阿方貝塚のほか富田の宮ノ内遺跡や松木広田遺跡が見つかりました。

愛媛県今治市の阿方貝塚

阿方貝塚

今治平野北部の低地に位置する弥生時代前期の貝塚を伴う遺跡で、瀬戸内を代表する阿方式土器が出土しています。南側の古い川のほとりには木製の水を流す施設がありました。

愛媛県今治市の御串山

御串山

宮浦港の南側に続く約700メートルも突き出した半島です。神功皇后が三韓征伐で寄港し、この山に登られて眺望をめでながら髪を櫛でとかしたことから御串山と呼ばれています。

古墳時代、飛鳥時代

今治では多くの古墳が残されており、前方後円墳が複数確認されています。海が見える場所に古墳が造られていることから、海上交通を支配する豪族が今治にいたと考えられています。

愛媛県今治市の妙見山古墳

妙見山古墳

標高80メートルの丘陵にある古墳時代前期の前方後円墳です。瀬戸内を代表する二段築成の古墳で、列石で墳丘が造られて竪穴式石室が長くて大きい特徴があります。

愛媛県今治市の日高鯨山の古墳

日高鯨山の古墳

標高15メートルの鯨山に築造された古墳で、前方後円墳もしくは円墳と推定されています。墳丘上には安寧寺と三嶋神社があり、墓は越智国造乎致命と伝えられています。

愛媛県今治市の野々瀬の古墳(七間塚古墳)

野々瀬の古墳(七間塚古墳)

野々瀬古墳群、多伎の宮古墳群、牛神古墳など、5世紀から7世紀に築造された50基以上の古墳群です。なかでも野々瀬古墳群の七間塚が有名です。

愛媛県今治市の多伎神社古墳群

多伎神社古墳群

多伎川の扇状地奥の谷部にある6世紀後半から7世紀後半頃の古墳群です。15基あまりの古墳があり、このうち横穴式石室をもつ円墳が3基開口しています。

奈良時代、平安時代

律令体制が整い伊予国が成立し、今治は越智郡の一部となりました。海上交通の要衝である今治には伊予国府や伊予国分寺が置かれ、伊予国の政治や宗教、文化の中心として栄えました。瀬戸内海の島は貴族の荘園が成立し、大島は醍醐寺の荘園が置かれました。製塩が盛んに行われて京へ運ばれました。

愛媛県今治市の伊予国分寺塔跡

伊予国分寺塔跡

天平13年(741年)の聖武天皇の発願により建立された国分寺跡です。創建時の塔の柱跡と考えられる礎石が残されており、当時の瓦の破片が付近に散在していました。

愛媛県今治市の伊予国分尼寺塔跡

伊予国分尼寺塔跡

国分寺と同じく国家鎮護のため諸国に建立されました。国分寺よりやや小さい東西8メートル、南北12メートルの土壇が残され、花崗岩の礎石6個が現存しています。

愛媛県今治市の志島ヶ原

志島ヶ原

燧灘を望む海岸にある白砂青松の景勝地で、志島ケ原にある綱敷天満宮は、菅原道真が九州大宰府に流される途中に里人が船のとも綱を敷いて迎えたという伝説によります。

鎌倉時代、南北朝時代

村上三家が芸予諸島を拠点として瀬戸内海の制海権を掌握しました。村上三家は北畠師清の跡を継いだ村上義顕が、長男雅房を能島、次男義豊を因島、三男吉房を来島に配置し、分立させたのが起こりといわれています。

愛媛県今治市の千疋のサクラ

千疋のサクラ

高縄半島中央部の楢原山に至る途中の千疋峠は桜の名所として知られます。南朝の長慶天皇が潜幸したと言われ、兵千騎の馬を繋ぐに余りある山桜が群生していたことに由来します。

室町時代、安土桃山時代

村上三家は毛利氏・大友氏・河野氏・三好氏などの勢力と協力関係や敵対関係をとりながら瀬戸内海に一大勢力を築きました。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは能島村上氏を日本最大の海賊と称し、天正4年(1576年)の第一次木津川口合戦では毛利輝元に加勢して織田信長を破りました。豊臣秀吉が四国を平定すると、天正15年(1587年)に能島村上氏は能島城を離れて海賊衆の歴史が終わりました。

愛媛県今治市の甘崎城跡

甘崎城跡

天智2年(663年)に白村江の戦いに敗れ、唐軍の侵攻に備えて築城された日本最古の水軍城です。戦国時代末期には来島村上氏の重臣である村上吉継の居城となりました。

愛媛県今治市の能島城跡

能島城跡

応永26年(1419年)に村上雅房が築城したと言われる天然の要害です。能島村上氏の代表的な拠点でしたが、豊臣秀吉の海賊禁止令で廃城となりました。

愛媛県今治市の大三島

大三島

大三島は村上海賊が拠点とした芸予諸島にある一つの島です。島内にある大山祇神社は伊予国一之宮とされ、武運や海上交通の安全を守る神として海賊たちの信仰を集めました。

愛媛県今治市の八幡山

八幡山

芸予諸島にある大島のほぼ中央部にある山で、村上海賊が拠点としました。麓にある大亀八幡神社は村上海賊が篤く信仰し、旗印として八幡大菩薩を掲げました。

江戸時代

藤堂氏により今治藩が立藩し、今治城を中心とする城下町として栄えました。寛永12年(1635年)に藤堂氏が移封となると、久松松平氏が入り明治時代まで統治しました。今治藩は製塩を推奨し、安価で良質な波止浜の塩を求めて各地から千石船が来航し、伊予の小長崎と呼ばれる賑わいをみせました。今治半島は綿花栽培に適しており、高い評価を得た伊予木綿はのちのタオル産業の素地となりました。

愛媛県今治市の今治城跡

今治城跡

慶長7年(1602年)に築城の名手である藤堂高虎が築城を始めました。日本三大海城と称される瀬戸内海に面した大規模な城で、堀に海水を取り入れるなどの特徴があります。

愛媛県今治市の今治藩主の墓

今治藩主の墓

瀬戸内海・唐子浜を望む丘陵に置かれた今治藩主久松松平家の墓で、初代松平定房、3代松平定陳、4代松平定基の3基の墓が並びます。

愛媛県今治市の甘藷地蔵

甘藷地蔵

名族河野氏の子孫で帰農していた下見吉十郎は、国禁を犯して薩摩国伊集院村から甘藷を郷里に持ち帰り瀬戸内海に普及させ、甘藷栽培地帯から一人の餓死者も出ませんでした。

明治時代、大正時代、昭和時代

廃藩置県で今治県が置かれ、松山県が石鉄県に名称変更となると今治に県庁が置かれました。愛媛県が誕生すると県庁は松山に置かれました。明治27年(1894年)に阿部平助が綿ネル織機を改造してタオル製造を開始し、昭和時代には日本最大のタオル産地となりました。大正9年(1920年)に今治市が誕生しました。

愛媛県今治市の波止浜

波止浜

造船業や海運業が発展し、世界有数の海事都市としての地位を築きました。明治33年(1900年)に小島には内海防衛の目的で芸予要塞小島砲台跡が築かれました。