歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

新居浜市

愛媛県新居浜市のマリンパーク新居浜

新居浜市は四国の瀬戸内海側のほぼ中央に位置し、南は四国山地が広がり北は瀬戸内海の燧灘に面しています。四国三大祭のひとつに数えられる太鼓台祭りが開催されることで知られています。江戸時代に別子銅山が開坑して沿岸部に住友関係の工場群が帯状に形成し、四国屈指の臨海工業都市を形成しました。

概要

面積
234.50km2
人口
114,701人(2021年11月1日)
市の木
クスノキ
市の花
ツツジ
市の歌
新居浜市歌
地図

歴史

元禄3年(1690年)に別子銅山が発見され、翌年に住友家の請負により開坑されました。別子銅山は住友家の経営により約280年採掘され、住友財閥の基を築いたとも言われます。新居浜市は農村から本格的な工業都市へと変貌を遂げていき、四国最大の工業地帯を形成していきました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の遺跡は発見されていませんが、縄文時代の遺跡は南部の大生院台地や東川低位台地周辺で確認されています。中萩の横山遺跡や横山古墳群から縄文早期の山形文・楕円文の押型文土器が確認され、萩生の大師泉遺跡から縄文後期の磨消縄文土器が出土しています。弥生時代前期の東田遺跡、割ヶ内遺跡のほか星原市東遺跡で集落跡が確認され、中期の桧端遺跡では桧端式と呼ばれる凹線文をもつ壺や甕が出土しています。弥生時代後期から古墳時代初頭には中村遺跡・尻無遺跡・金栄遺跡などが知られています。

愛媛県新居浜市の別子ライン

別子ライン

国領川の上流にある渓谷景勝地で、変化に富んだ巨岩と清流に恵まれています。ドイツを流れるライン川の渓谷にあやかり名付けられました。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代中期に造営された金子山古墳は、朝鮮半島との強い親縁性がうかがえる金銅製長鎖付耳飾や江田船山古墳と同形の画文帯神獣鏡などが出土したことから盟主墳と目されています。古墳時代後期には横山独立丘陵の西部南斜面の横山古墳群や国領川左岸の独立丘陵上に正光寺山古墳群が造営されました。

奈良時代、平安時代

律令体制の成立により神野郡が置かれ、大同4年(809年)に新居郡と改称されました。泉川地区には法隆寺領新居荘があり、船木地区に東大寺領新居荘が存在したものと考えられています。河内寺遺跡では白鳳期の百済式瓦や法隆寺式布目瓦が出土しており、法隆寺領新居荘との関連性が指摘されています。

鎌倉時代、南北朝時代

承久3年(1221年)の承久の乱に敗れた新居氏が没落していき、新居郡は新たに入部してきた西遷御家人である金子氏の勢力下に置かれました。南北朝の争乱が北朝の勝利で終わると、河野氏と讃岐守護の細川氏との対立が激化し、備中守護細川氏の被官である石川氏が代官として新居郡に入部しました。

室町時代、安土桃山時代

石川氏の支配権が動揺していくと在来領主の金子氏が勢力を強化し、金子元宅が石川氏当主の義兄として郡内の諸勢力を統括するまでに成長しました。阿波三好氏が後退すると、伊予国守護河野氏や安芸の毛利・小早川の影響が強くなりました。天正9年(1581年)に土佐の長宗我部氏が勢力を伸ばしますが、翌年に豊臣秀吉の四国平定で小早川隆景率いる芸州勢により金子城などが制圧されて廃城となりました。

江戸時代

小早川隆景のあと、福島正則・池田高祐・小川祐忠・加藤嘉明・藤堂高虎・蒲生忠知・一柳直重・一柳直興と領主が交代し、寛文10年(1670年)に紀伊和歌山藩主徳川頼宣の次男・松平頼純が封じられました。元禄4年(1691年)に住友家請負により別子銅山が開坑し、元禄11年(1698年)には世界有数の産銅高を誇りました。

愛媛県新居浜市の別子銅山口屋跡

別子銅山口屋跡

別子銅山から銅を搬出するほか、別子銅山で働く人たちの生活物資を運ぶための物流中継地点でした。跡地は小学校や町役場となり、現在は公民館となりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で西条県や小松県となり、神山県を経て愛媛県となりました。別子銅山の経営主体である住友家は大規模な投資を行い農村から本格的な工業都市へと変貌を遂げていき、昭和12年(1937年)に新居浜町・金子村・高津村が合併して新居浜市が誕生しました。新居浜市は戦時中は軍需産業の中核を担い、戦後は高度経済成長を支える重要な役割を果たしました。

別子銅山の近代化

別子銅山の経営は住友家に引き継がれ、明治7年(1874年)に近代化を図るべくフランス人技師のブルーノ・ルイ・ラロックを雇い入れて近代化を図りました。明治32年(1899年)の台風により山津波が発生したほか煙害問題に悩まされつつ採掘が行われ、昭和48年(1973年)に閉山しました。

愛媛県新居浜市の旧広瀬氏庭園

旧広瀬氏庭園

別子銅山を近代化して住友グループと工業都市新居浜の礎を築いた広瀬宰平の旧邸と庭園です。明治20年(1887年)に母屋を移築し、武田清兵衛が内庭を作庭しました。

愛媛県新居浜市のマイントピア別子

マイントピア別子

別子銅山開坑三百年を記念して造られたテーマパークです。東平地域には銅山関連施設や生活関連施設が整備され、東洋のマチュピチュと呼ばれています。