大洲市

大洲市は愛媛県の西南部に位置し、市域の中心を肱川とその支流の河辺川が流れます。市域の7割以上を森林が占めて豊かな農林業地域を形成し、西部は瀬戸内海伊予灘に面しています。この地形的な特徴から、冬に霧が肱川を勢いよく下り流れる肱川あらしが起こることで知られます。
概要
- 面積
- 432.22km2
- 人口
- 39,648人(2022年2月1日)
- 市の花
- ツツジ
- 市の木
- ツツジ
- 地図
歴史
鎌倉時代に喜多郡の地頭職を与えられた宇都宮氏は、大洲城を築いて居城としました。大洲城は宇和島往還や松山往還などの起点として南予地方の経済的な拠点となり、肱川を活かした水運と商業は伊予の小京都と呼ばれる城下町を形成しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
後期旧石器時代から人の営みがあり、長瀬遺跡からナイフ形石器文化の段階である角錐状石器が発見されています。縄文時代には田合遺跡や柚木遺跡で縄文時代早期の押型文土器、常森遺跡や慶雲寺遺跡で縄文時代後期の土器片が発見されているほか、長瀬・馬場ノナル遺跡では姫島産の黒曜石などを用いた石器類が発見されています。弥生時代になると遺跡の数は格段に増加し、都谷遺跡などで集落跡が見つかり、村島宮の首遺跡は全国的に珍しい石斧製作遺跡と考えられています。
古墳時代、飛鳥時代
鶏形埴輪が出土したとされる阿蔵古墳、横穴式石室を主体とする塚穴古墳や田合古墳などが見られます。
奈良時代、平安時代
律令体制が確立されると宇和郡に属しましたが、貞観8年(866年)に市域のほとんどが宇和郡から分立した喜多郡に属しました。承平4年(934年)に藤原純友による承平・天慶の乱で海賊が不動倉から米を盗んだとされています。
鎌倉時代、南北朝時代
承久の乱が鎮圧されて宇都宮氏が伊予国守護のほか、喜多郡地頭職を与えられました。元弘3年(1333年)の鎌倉幕府崩壊では、喜多郡地頭宇都宮貞泰の代官などが根来山城に籠り、怱那・三島祝などの反幕勢力と激しく戦いました。南北朝時代には津々喜谷氏が瀧之城を拠点として勢力を広げました。
室町時代、安土桃山時代
宇都宮氏は地蔵ヶ嶽城(大洲城)を居城として勢力を維持しました。永禄11年(1568年)に河野・毛利氏と宇都宮氏・土佐一条氏が鳥坂峠で合戦となり、敗退した宇都宮氏は衰退して在地領主が河野氏や毛利氏、長宗我部氏と結びつきました。天正13年(1585年)に豊臣秀吉が四国を平定すると喜多郡や宇和郡は小早川隆景から戸田勝隆に与えられ、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が領主となりました。

大洲城跡
宇都宮氏の居城でしたが、豊臣秀吉の四国平定後に小早川隆景が城郭整理を行いました。小早川氏から戸田氏、藤堂氏、脇坂氏と引き継がれて近代城郭へと整備されていきました。

大洲神社
元弘元年(1331年)に宇都宮豊房が大洲城を築いたときに下野國(栃木県)二荒山神社より勧請して太郎宮として斎祭され、大洲藩の歴代城主の崇敬を集めました。

金山出石寺
慶長2年(1597年)に藤堂高虎は朝鮮出兵に際して金山出石寺を参詣しました。帰国後は朝鮮より銅鐘を持ち帰り、金山出石寺に奉納したと伝えられます。
江戸時代
藤堂高虎は宇和島城を築城して拠点を宇和島に移し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦功で伊予半国を領有すると今治城を築いて拠点を移しました。慶長13年(1608年)に藤堂高虎が伊勢国津に転封となると、翌年に脇坂安治が領主となりました。元和3年(1617年)に大津藩初代藩主・加藤貞泰が入封してから、宇和島往還や松山往還などの起点として南予地方の経済的な拠点となり、寛永16年(1639年)に支藩として新谷藩が置かれました。延享4年(1747年)には6代藩主・加藤泰衑が大洲藩校として明倫堂を創設し、寛延3年(1750年)には文庫や学室を備えた民間教育機関・古学堂が創設しています。

中江藤樹の邸跡
中江藤樹は陽明学派の祖とされ近江聖人と称えられています。元和2年(1616年)に加藤家家臣の祖父に養子となり、加藤氏の大洲に転封で祖父母と大洲へ移り住みました。

川田雄琴一家の墓
川田雄琴は三輪執斎に師事した陽明学者です。加藤泰温に召し抱えられ、延享4年(1747年)に完成した藩校・止善書院明倫堂で教授を務めて大洲に陽明学を広めました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により大洲藩は大洲県、新谷藩は新谷県となり、宇和島県や神山県と統廃合を経て、明治6年(1873年)に石鉄県と合併して愛媛県が生まれました。明治15年(1882年)に喜多郡町の下井小太郎は養蚕業を推奨し、明治23年(1890年)には河野喜兵衛と程野宗兵衛が大洲に製糸工場を設立して県下一の製糸工業地となりました。平成17年(2005年)に大洲市が誕生しました。平成30年(2018年)の西日本豪雨で戦後最大の流量を記録する洪水被害を受けました。

臥龍山荘庭園
臥龍山荘は肱川流域随一の景勝地・臥龍淵に臨む三千坪の山荘です。木蝋貿易などで成功した河内寅次郎が私財を投じて建築したもので、大洲の桂離宮の異名を持ちます。
