歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

四国中央市

愛媛県四国中央市の翠波高原

四国中央市は愛媛県の東端部に位置し、四国で唯一四国4県が接する地域です。東西に広がる海岸線の東部には全国屈指の製紙・紙加工業の工業地帯を擁し、その南側の比較的狭い地域に市街地を形成しています。海岸線西部には美しい自然海岸が広がり、その南には広大な農地が広がります。

概要

面積
421.24km2
人口
81,277人(2022年2月1日)
地図

歴史

瀬戸内海から内陸へと続く交通の要衝で、戦国時代に抗争の地となりました。良質な水と楮などの和紙の原料に恵まれたことで江戸時代に伊予和紙の生産が始まり、明治時代に近代的な機械漉き製紙業が導入されて急速に発展しました。四国中央市は全国一の集積地となり、紙のまちとして知られるようになりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代終末期の石器が上分町高田や下川町などで発見されています。縄文時代後期以降の土器が土居町藤原や上分西遺跡などで出土しています。弥生時代になると遺跡の数も多くなり、主に金生川流域を中心とした東部地域に分布しています。川之江町大江遺跡では弥生時代中期から海浜に生活が営まれ、三島宮川の破魔殿遺跡では弥生時代終末期から古墳時代への転換期の集落が営まれて鉄器を製作した鍛冶炉が出土しています。柴生町・金生町下分や土居町入野・津根などでは祭祀に使われた銅剣や銅鉾が発見されています。

古墳時代、飛鳥時代

3世紀後半から5世紀の古墳は少ないですが、6世紀前後に横穴式石室が導入されると各地で多くの古墳が築造されるようになりました。妻鳥町から上柏町にかけての丘陵地帯の東宮山古墳、経ヶ岡古墳などが比較的早い時期のものと見られます。7世紀に入ると金生川流域に向山古墳などが、土居町東部に群集墳である大空・高原古墳群が築造されたと考えられます。

愛媛県四国中央市の朝日山古墳

朝日山古墳

6世紀後半から7世紀頃に築造されたと考えられる円墳で、横穴式石室が東南に向けて開口しています。玄門の両側及び羨道の入口両側に石柱を立てています。

愛媛県四国中央市の宇摩向山古墳

宇摩向山古墳

古墳時代終末期の7世紀前半に築造された巨石墳で、単一丘陵上に2基の横穴式石室が平行して築造された稀有な古墳です。両石室とも県内最大級の石室規模を誇ります。

愛媛県四国中央市の大空・高原古墳群

大空・高原古墳群

6世紀後半から7世紀代に築造された古墳群です。5号古墳は最もその形態を良く保存している円墳で、両袖式の横穴式石室には框石があり石段を造り出しています。

奈良時代、平安時代

律令体制が成立して伊予国が置かれ、馬評が宇摩郡へと呼び名が変化したと考えられています。阿波・讃岐国府から伊予国府へ至る官道が整備され、大岡駅や近井駅が置かれました。平安時代後期には源平合戦の一ノ谷の戦いのあと、源氏から逃れた安徳天皇が半年間を過ごしたと言われています。

愛媛県四国中央市の伊予遍路道(三角寺奥之院道)

伊予遍路道(三角寺奥之院道)

65番札所三角寺から奥之院仙龍寺を経て、66番札所雲辺寺に至る遍路道の一部です。三角寺は空海が三角の護摩壇を築いて修法したと言われ、奥之院は岩窟で修行したとされます。

鎌倉時代、南北朝時代

延元2年(1337年)に伊予の豪族で南朝方の河野通政が讃岐の細川氏に備えるため、家臣の土肥義昌が鷲尾山に川之江城を築きました。興国3年(1342年)に北朝方の細川頼春により攻められ、土肥義昌は畠山城主・由良吉里とともに防戦しましたが討死して川之江城は細川氏が領有しました。

室町時代、安土桃山時代

川之江城は細川氏から河野氏に返還されましたが、元亀3年(1572年)に阿波国の三好長治の攻撃を受け、城主の妻鳥友春が撃退しました。長宗我部氏が四国平定を進めると妻鳥友春は河野氏に背いて長宗我部氏に通じました。河野氏は河上安勝に命じて城を攻め取りますが、天正10年(1582年)に長宗我部氏に攻められて河上安勝は自害して落城しました。この落城で河上安勝の娘・年姫が姫ケ嶽に身を投げた伝説が残ります。天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国平定で小早川隆景が川之江城を攻略し、小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏と領主が入れ替わりました。

愛媛県四国中央市の川之江城

川之江城

南北朝時代に築かれた平山城で、川之江の玄関口として重要な役割を果たしました。本丸付近の石垣に僅かに残るだけでしたが、昭和61年(1986年)に天守閣が完成しました。

江戸時代

寛永13年(1636年)に伊勢神戸(三重県鈴鹿市)城主・ 一柳監物直盛が伊予西条に移封されましたが入国途中で病没したため、遺領は分割されて川之江は次男・一柳直家に分与されました。寛永19年(1642年)に一柳直家が病没して子が播磨国小野に移され、一時西条藩一柳家が領有しましたが、幕府、今治藩、西条藩の領地が入り組む形となりました。

川之江の興隆

川之江から分岐した土佐道は土佐藩の参勤交代で使用され、川之江には宿場町が置かれました。四国遍路が盛んになると伊予最後の札所・三角寺を結ぶ遍路道を多くの人が往来しました。川之江村の回船業の家に生まれた尾藤二洲は、昌平坂学問所の教授となり寛政の三博士として知られます。尾藤二洲に師事を受けた近藤篤山は川之江で塾を開き、のちに小松藩に迎えられて伊予聖人と称えられました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で丸亀県に編入され、今治県と西条県とともに松山県となりました。江戸時代から始められた製紙業が次第に広がり、時代の流れとともに機械抄き製紙工場が次第に増えていきました。戦後の高度経済成長期に紙産業の基盤整備が進み、日本一の紙のまちとして発展を遂げました。平成16年(2004年)に川之江市・伊予三島市・土居町・新宮村が合併して四国中央市が誕生しました。

愛媛県四国中央市の金砂湖及び富郷渓谷

金砂湖及び富郷渓谷

昭和28年(1953年)に銅山川の富郷渓谷に柳瀬ダムが建設され水不足に苦しんでいた宇摩平野が救われ、銅山川には8キロにわたり美しい人造湖・金砂湖が形成しました。