歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

西予市

愛媛県西予市の卯之町伝統的建築群

西予市は愛媛県の南予地方中部に位置し、西部は宇和海に面してリアス式海岸を形成しています。四国カルストの山麓に盆地を形成し、市域全域が日本ジオパークに認定されています。宇和海は魚介類が豊富で、宇和盆地で品質の高い米が収穫され、山麓の段々畑ではみかんや清見タンゴールなどの高品質な柑橘類が栽培されています。

概要

面積
514.34km2
人口
34,483人(2022年2月1日)
市の木
ブナ
市の花
レンゲソウ
市の鳥
ウグイス
市の魚
アジ
市の昆虫
ホタル
市の歌
いつの日も
地図

歴史

伊予国最大の荘園である宇和荘を手に入れた西園寺氏が支配しましたが、大友氏や土佐一条氏などの侵攻で抗争の場となり、長宗我部氏の侵攻で城を明け渡しました。江戸時代に宇和郡を与えられた伊達氏は宇和島藩を立藩し、幕末に明治維新の一翼を担いました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文時代に黒瀬川の上流にある穴神洞遺跡や中津川洞穴遺跡などの洞穴や岩陰やリアス式海岸の入江湾奥の狭小な扇状地に集落が営まれました。弥生時代前期初頭に宇和盆地に稲作が伝播し、弥生時代後期になると宇和盆地に多くの集落が形成しました。

愛媛県西予市の穴神洞遺跡

穴神洞遺跡

黒瀬川上流のジュラ紀末期の二枚貝やウニの化石が見られる鍾乳洞で、縄文時代の微隆起線文をもつ土器やニッポンオオツノジカの骨などの多くの獣骨が発見されました。

愛媛県西予市の中津川洞穴遺跡

中津川洞穴遺跡

黒瀬川の支流、中津川の右岸に迫り出した砂岩からなる丘陵斜面と河岸段丘に形成した洞穴で、縄文時代の早期・前期・後期の土器類や石器類のほか人や動物の骨も出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

宇和盆地では笠置峠古墳をはじめとする古墳時代前期の前方後円墳が3基築造され、以後も鉄製甲冑を出土した古墳時代中期の岩木赤坂古墳、後期のナルタキ古墳群、樫木駄場古墳群などが築造されました。安養寺裏山古墳の方格T字鏡、伊勢山大塚古墳や河内谷遺跡の陶質土器、伝長尾古墳出土の袋状鉄斧など大陸や朝鮮半島由来の文物も出土しています。7世紀には方墳と考えられる東大谷古墳が築造されました。

愛媛県西予市の笠置峠古墳

笠置峠古墳

4世紀初め頃に築造されたと考えられる西南四国最古の前方後円墳です。宇和盆地一帯を治めた首長の墓で、飲食を伴う祭祀が古墳の上で行われたことが土器から知られています。

奈良時代、平安時代

律令体制が成立して伊予国が置かれました。7世紀後半に宇和評が置かれ、8世紀初頭以降に宇和郡となりました。笠置峠古墳の麓には岩木廃寺と考えられる西ノ前遺跡が見つかりました。平安時代後期には伊予国最大の宇和荘が形成し、華津湾を拠点とする海の民が活躍しました。

愛媛県西予市の伊予遍路道(明石寺境内)

伊予遍路道(明石寺境内)

明石寺は若い女神が深夜に大石を運び夜明けに姿を消した伝承から名付けられました。天平6年(734年)に寿元行者が十二社権現を勧請して修験道場となりました。

愛媛県西予市の伊予遍路道(大寶寺道)

伊予遍路道(大寶寺道)

明石寺から大寶寺に至る巡礼路で、四国遍路のなかでも3番目に距離が長いです。切り通しなど往時の遍路道の雰囲気を良く残しており国史跡指定となりました。

鎌倉時代、南北朝時代

伊予国主となる西園寺氏が伊予国最大の荘園である宇和荘を手に入れて経済基盤の一つとしました。西園寺氏の分流が宇和郡に下向しますが、御荘氏、津島氏、河原淵氏、土居氏、北之川氏、法華津氏らの豪族が一定の独自性を示したため、西園寺氏の勢力基盤は盤石とは言えませんでした。

室町時代、安土桃山時代

西園寺氏は松葉城や黒瀬城などの山城や砦を数多く築造して宇和郡の支配を強化しました。永禄11年(1568年)の鳥坂合戦をはじめとして、16世紀後半に大友氏、土佐一条氏、長宗我部氏らからたびたび侵攻を受けるなど騒乱が絶えませんでした。天正13年(1585年)に西園寺氏は長宗我部氏と講和して黒瀬城を離れ、西園寺氏の支配は終焉を迎えました。

愛媛県西予市の三滝城跡

三滝城跡

西園寺氏の有力武将で北之川殿と呼ばれる紀氏の居城として築かれました。天正年間に長宗我部元親に攻められて城主の紀親安は討死しました。今も斜面から炭化米が出土します。

愛媛県西予市の泉貨居士の墓

泉貨居士の墓

こうぞを原料とする和紙である泉貨紙の製法を発明した兵頭太郎左衛門の墓です。兵頭太郎左衛門は西園寺公広に仕え、主家滅亡後は安楽寺近くに草庵を結び泉貨と号しました。

江戸時代

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで宇和郡松葉の三瀬六兵衛は毛利氏の調略を受け、藤堂氏に対して一揆を起こす松葉騒動が起こりました。元和元年(1615年)に宇和郡を与えられた伊達秀宗は坂嶋丸串城に入り宇和島藩を立藩しました。宇和海では鰯網漁が盛んに行われて鰯を干した干鰯は肥料として上方に販売されて藩の重要な財源となりました。嘉永3年(1850年)には土佐で石灰焼きを学んだ宇都宮角治が小僧都に窯を築いて本格的な石灰生産が始められました。

愛媛県西予市の卯之町伝統的建築群

卯之町伝統的建築群

黒瀬城の対岸山麓に営まれた松葉町は、南予全域を支配した西園寺氏の城下町を起源としています。街道の宿場町として栄え、のちに名を変え卯之町と呼ばれるようになりました。

愛媛県西予市の宇和海狩浜の段畑と農漁村景観

宇和海狩浜の段畑と農漁村景観

狩浜は鰯漁を営む漁村で、好不漁の浮き沈みを麦、櫨、養蚕などで補いました。現在は多様な柑橘栽培を主産業とし、ちりめん漁や真珠養殖が行われています。

愛媛県西予市の八幡浜街道(笠置峠越)

八幡浜街道(笠置峠越)

古くから西予市宇和町北東部から八幡浜市南部を結ぶ街道として使われていました。元禄14年(1701年)の3代藩主伊達宗贇を始め歴代藩主が参勤交代で使用しました。

愛媛県西予市の高野長英の隠れ家

高野長英の隠れ家

宇和島藩8代藩主・伊達宗城は、幕府お尋ね者の脱獄逃亡犯の高野長英を密かに宇和島に招き、兵学書の翻訳や藩士への蘭学教授、砲台の設計、軍艦建造の研究にあたらせました。

愛媛県西予市の大村益次郎住居跡

大村益次郎住居跡

伊達宗城は長州の無名医である村田亮庵(大村益次郎)を召し抱え、軍艦ひな形の建造、砲台築造、軍制改革、蘭学教授にあたらせました。

愛媛県西予市の二宮敬作住居跡・女医イネの出発点

二宮敬作住居跡

二宮敬作はドイツ人医師シーボルトの弟子で、シーボルト事件に連座して長崎から追放されました。二宮敬作は卯之町で病院を開業し、シーボルトの妻と娘イネの扶養に努めました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で宇和島県となり、翌年の神山県を経て、明治6年(1873年)に愛媛県となりました。大正6年(1917年)に三瓶隧道などの交通路が整備され、埋立や港湾の改修が進められました。大正8年(1919年)に三瓶織布株式会社が設立し、昭和4年(1929年)に八幡浜紡績工場が移転するなど工業化が進みました。平成16年(2004年)に東宇和郡が消滅して西予市が誕生しました。

愛媛県西予市の開明学校

開明学校

明治2年(1869年)に左氏珠山の門下生や町民の有志により建てられた私塾・申義堂を前身として、明治15年(1882年)に町民の寄付により建てられた擬洋風建築の小学校校舎です。

愛媛県西予市の宇和米博物館

宇和米博物館

昭和3年(1928年)に建築された旧宇和町小学校の建物で、平成2年(1990年)に宇和米博物館となりました。日本一長い木造建築の廊下は雑巾がけの競争が行われます。