歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

喜多郡

愛媛県喜多郡の泉谷棚田

喜多郡は愛媛県のほぼ中央に位置する山あいの町で、内子町のみで形成しています。面積の8割を森林が占め、町の中央部を一級河川・肱川の支流である小田川が流れています。町の外れには棚田や屋根付き橋、水車小屋など美しい里山の風景が広がり、温暖な気候で柿・ぶどう・梨・桃などの果樹栽培も盛んです。

概要

面積
299.43km2
人口
14,932人(2022年2月1日)
含む町村
内子町
地図

歴史

江戸時代後期に櫨の栽培が本格化し、櫨の実から採れる木蝋が蝋燭や化粧品、医薬品の原料として全国に出荷されました。内子や大瀬の商家たちは木蝋の精製と販売で莫大な富を築き、豪華な邸宅や店舗を建設したほか内子座と呼ばれる劇場が建設されました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

肱川流域の河岸段丘で人びとが生活を始め、上和田遺跡、七反山遺跡、水戸森遺跡など多くの遺跡の存在が確認されています。縄文時代には、縄文土器片や川石による石組遺構が確認された石浦東遺跡、祭器と推定される石器が出土した石浦西遺跡をはじめ、村前洞遺跡、松の木遺跡、椎ノ木駄馬遺跡、真弓遺跡などが知られています。弥生時代になると遺跡は減少し、五十崎の龍王城跡遺跡・平岡遺跡、知清Ⅰ遺跡が確認される程度です。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代の遺跡は大洲盆地ではわずかに4基のみで、内子地区は古墳、遺跡ともに未発見で、五十崎地区で須恵器が1点発見されているに過ぎません。

奈良時代、平安時代

律令体制の成立に伴い伊予国も国郡制が整備され、宇和評という行政組織から宇和郡へと変化しました。貞観8年(866年)に宇和郡は宇和と喜多に分割され、喜多郡に属しました。承平5年(934年)に海賊が喜多郡の不動穀(非常備蓄籾)を略奪した記録が残されています。元暦2年(1185年)に平家方の田内氏が伊予の豪族河野氏を攻め、河野氏は比志城の戦いで撃退しています。

鎌倉時代、南北朝時代

喜多郡は梶原景時に与えられましたが、のちに宇都宮氏の所領となりました。元徳2年(1330年)に宇都宮豊房は執権北条高時から伊予国守護に任命され、下野国(栃木県)から根来城に入城しました。元弘3年(1333年)に宇都宮氏は、根来城の戦いで南朝方の忽那氏の攻撃を撃退しました。

室町時代、安土桃山時代

主な在地勢力として曽根城(内子)の曽根氏、龍王城(五十崎)の伊賀崎氏、太田城(小田)の大野氏などがありました。これらの豪族は豊臣秀吉の四国平定により、降伏して開城しました。天正13年(1585年)に伊予国を与えられた小早川隆景を皮切りに、天正15年(1587年)に戸田勝隆、文禄4年(1595年)から藤堂高虎が入りました。戦国時代末期の内子では六日市、七日市という市が始まり、盛衰しながら江戸時代も続きました。

江戸時代

慶長14年(1609年)に脇坂安治が大洲城に入り大洲藩が成立しました。元和3年(1617年)に脇坂氏の転封により伯耆国米子から加藤貞泰が入部し、加藤氏が明治維新まで統治しました。喜多郡は松山藩に属していましたが、加藤泰興の時代に大洲藩領との一部替地で大洲藩領となり、内地分地の形で新谷藩が成立してその藩領となりました。新谷藩が倹約令や増税策を打ち出すと一揆が頻発し、寛延3年(1750年)の内之子騒動、寛保元年(1741年)の久万山騒動、天明8年(1788年)の大瀬騒動、文化7年(1810年)の横峰騒動、慶応2年(1866年)の奥福騒動が発生しています。

和紙と木蝋の町

加藤泰興が岡崎治郎左衛門に命じて漉かせた岡崎紙は大名専用の高級和紙となり、越前出身の宗昌禅定門が伝えた和紙が一般に広まり大洲半紙として好評を博しました。和紙は宝暦年間に藩の専売制となり取引が禁止され、藩財政に大きく貢献しました。元文3年(1738年)に五十崎の綿屋善六が木蝋生産を始め、同じ頃に内子でも芳我源六が木蠟生産を開始しました。木蝋は藩による専売は行われませんでしたが、原料と製品の統制が行われました。

愛媛県喜多郡の八日市・護国の町並み

八日市・護国の町並み

江戸時代後期から明治時代にかけて木蝋の生産で栄えた町で、最盛期には木蝋国内生産の約3割を内子町で生産していました。内子最大の生蝋業者で大豪商の本芳我邸などが残ります。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で大洲県が置かれますが、民衆により大洲騒動や臼杵騒動が起こりました。大洲県は宇和島県や神山県を経て愛媛県に移行しました。江戸時代から続いていた木蝋生産は発展を遂げ、良質の白蝋は国内外で好評を博しました。大洲和紙は西洋紙の普及で衰退しましたが、代わりに養蚕業が盛んになりました。明治20年(1887年)頃には大瀬熊ノ滝鉱山が発見され、大正9年(1920年)まで採掘されました。戦後の高度経済成長期に若者の流出が相次いで過疎化が進み、平成17年(2005年)に旧内子町、旧五十崎町、旧小田町が合併して現在の内子町となりました。

愛媛県喜多郡の内子座

内子座

大正5年(1916年)に建設された歌舞伎の芝居小屋です。映画館などに改装されたあと老朽化のため取り壊されるところ、復原されて劇場として再出発しました。