歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

香美市

高知県香美市のべふ峡渓谷

香美市は高知県の東部に位置し、県内の市で唯一海に接していません。東北部には四国山地があり、物部川や国分川が貫流しています。市域の9割が森林を占め、物部川上流域には天然林が残されています。山間部はゆずの栽培が盛んで、青果ゆずの出荷量は日本一を誇ります。伝統産業として、土佐打刃物やフラフ(鯉のぼり)が有名です。

概要

面積
537.86km2
人口
26,018人(2022年10月1日)
地図

歴史

日本三大鍾乳洞の一つである龍河洞が形成した自然豊かな地域で、古くから人の生活の基盤となりました。山間部では林業が営まれ、物部川を利用して各地に輸送されました。昭和時代になると山間部では温暖な気候を利用して柚子の栽培が盛んとなり、日本一の出荷量を誇るようになりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

新改西谷遺跡などの海岸段丘、河岸段丘で後期旧石器時代の遺跡や遺物が確認されています。縄文時代には新改川の河岸段丘に立地する屋舗田丸遺跡から土器が出土し、砥用左岸の小山田遺跡から晩期の土壙4基と土器が出土しています。弥生時代中期から遺跡が増えて刈谷我野遺跡や飼古屋岩陰遺跡などが残されており、龍河洞洞穴遺跡からは鉄鏃や喝璃製勾玉などが出土しています。

高知県香美市の龍河洞

龍河洞

日本三大鍾乳洞のひとつです。全長4キロにも及ぶ洞窟は、雨水が1億7500万年の年月を経て石灰石を侵食したものです。弥生時代中期後半の遺跡もあります。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代後期の小円墳・横穴式石室・群集が存在し、5世紀松から6世紀初頭に築造された原大塚古墳から須恵気器の円筒埴輪が出土しています。6世紀中葉の伏原大塚古墳からは竈跡が見つかり、出土した須恵器杯から祭祀が行われていたと考えられています。7世紀初頭から後半には高知県最大級の石室がある新改古墳が造営されています。

奈良時代、平安時代

奈良時代から平安時代にかけて須恵器や瓦が焼かれた窯跡が40以上確認されています。比江廃寺跡の瓦を焼成したタンガン窯跡や土佐国分寺の平瓦を焼成した東谷窯跡が存在し、新改川左岸の河岸段丘に所在する須江上段遺跡や須江北遺跡からは官街的掘立建跡や多量の須恵器、土師器が出土しています。

高知県香美市の轟の滝

轟の滝

落差82メートルの3段の滝で、平家伝説が残ります。伊和三太夫と名を改めた平良種の娘・玉織姫にまつわる伝説により、滝壺の近くに玉織姫を祀る轟神社が建てられています。

鎌倉時代、南北朝時代

建久4年(1193年)に源頼朝の命を受けた中原太郎秋家が土佐国に下向し、宗我部郷と深淵郷の地頭として楠目城を拠点に山田氏を名乗りました。山田氏は勢力基盤を強固なものとし、戦国土佐七雄のひとつとなりました。

室町時代、安土桃山時代

長宗我部国親が山田元義が籠る楠目城を攻めました。談議所城主の山田監物長秀は救援に向かいましたが、伏原大塚古墳付近で討死して楠目城は落城して山田氏は滅亡しました。

高知県香美市の津野親忠墓

津野親忠墓

長宗我部元親が四男盛親を跡取りとしました。元親の三男で津野勝興の養子に入った津野親忠は謀反の疑いで孝山寺に幽閉され、元親死後に盛親から切腹を命させられました。

江戸時代

香南市の浜辺は塩の生産地として知られ、奥地をつなぐ交易道は塩の道と呼ばれて生活物資などの運搬道としても利用されました。野中兼山は、寛文4年(1664年)に山田堰を完成させて山田台に水田を開発したほか、共同井戸として公儀の井戸を整備しました。

高知県香美市の山田堰

山田堰

野中兼山が築造した長さ327メートルの堰で、寛永16年(1639年)から26年かけて完成させました。下流の平野を潤して舟運の利用で土佐藩の経済に大きく貢献しました。

高知県香美市の野中神社(お婉堂)

野中神社(お婉堂)

宝永5年(1708年)に野中兼山をはじめとする血縁者を祀るため、野中兼山の娘・お椀が旧臣古槙氏の協力を得て建立した神社です。

高知県香美市の谷重遠墓

谷重遠墓

谷重遠(谷秦山)は5代藩主山内豊房に召されて藩士に儒学を講義しました。子孫と門人に受け継がれた教義は土佐藩教学の中心となり、のちの明治維新の原動力となりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治6年(1873年)から干ばつが続き、新改川下流と上流の農民で水権利を巡る激しい争いが起こり、明治33年(1900年)に4年近い歳月をかけて甫喜ケ峰疎水が完成しました。明治42年(1909年)に高知県初の水力発電所として旧平山発電所が完成して近代化が図られ、大正14年(1925年)に高知駅と土佐山田駅との間に鉄道が開通しました。

戦後から現在

アジア太平洋戦争が終結して、木材需要の高まりや永瀬ダムなどの建設により地域経済は大きく変化していきました。昭和41年(1966年)に物部地区で柚子の生産が始められ、青果ゆずが出荷量日本一となりました。平成18年(2006年)に土佐山田町・香北町・物部村が合併して香美市が誕生しました。