歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

高岡郡

高知県高岡郡の浅尾沈下橋

高知県高岡郡は高知県中央部に位置します。石鎚山系に囲まれ、清流仁淀川が貫流する自然豊かな町です。温暖多雨の地域には農村地域が広がり、中土佐町では国産では珍しい七面鳥を生産しています。佐川町は土佐藩筆頭家老・深尾氏の城下町として栄え、土佐湾に面する沿岸部ではカツオの一本釣りで有名な漁村が広がります。

概要

面積
1,527.4km2
人口
50,468人(2022年10月1日)
含む町村
中土佐町、佐川町、越知町、檮原町、日高村、津野町、四万十町
地図

歴史

関ヶ原の戦いの戦功により山内一豊に土佐国が与えられ、深尾重良が高岡郡佐川に入りました。深尾氏は土佐藩筆頭家老として強い独立性と特権が認められ、佐川の城下町には日本有数の酒蔵が形成しました。深尾氏の家塾・名教館で学んだ藩士は、幕末に倒幕運動に参加して明治維新の一翼を担いました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

横倉山や佐川盆地は化石の宝庫として知られ、横倉山は日本最古級の化石が産出する場所として知られています。縄文時代前期から中期の遺跡はほとんど見当たりませんが、縄文時代後期から遺跡が増えていきます。仁淀川流域には縄文時代から弥生時代初頭に女川遺跡や川口遺跡などが、弥生時代中期の荷稲遺跡や神ノ西遺跡などが形成しました。四万十町窪川は県内最多の銅戈・銅矛が出土しています。

高知県高岡郡の長沢の滝

長沢の滝

落差34メートルでハート型の穴から水が流れ出るというとても珍しい滝です。滝壺に金属でできたものを投げ込むと次の日は雨になるという伝説が残ります。

高知県高岡郡の不動が岩屋洞窟

不動が岩屋洞窟

石灰岩帯の鳥の巣石灰岩脈に属する洞窟です。日本最古の土器群のひとつで、洞窟から細隆起線文土器と呼ばれる縄文時代草創期で県内最古の土器が出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

大型の古墳の数は少ないものの四万十川下流域に枝川古墳群などが造営されました。小村神社の金銅荘環頭大刀は古墳時代後期に朝鮮半島や畿内との強い交流の中で製作されたと考えられています。

奈良時代、平安時代

延喜13年(913年)に津野経高が入部して津野荘を成立させ、延喜19年(919年)に伊豆から三嶋大明神を勧請して三嶋神社を創建しました。津野氏は姫野々城を本拠地とし、土佐七雄の一つとして土佐中央部の山間地域に勢力を持ちました。

高知県高岡郡の岩本寺

岩本寺

行基菩薩が建立した福圓満寺を前身とし、弘仁年間に弘法大師空海が仁井田明神を五つの社に分けて不動明王、観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の像を安置しました。

高知県高岡郡の横倉山

横倉山

土佐国唯一の修験道の霊場で、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇が落ち延びた伝説が残されています。植物学者・牧野富太郎博士の研究場でもありました。

鎌倉時代、南北朝時代

高岡荘・蓮池荘の地頭に大平国信を祖とする大平氏が入り、三宮氏が久佐賀別符と呼ばれる荘園を支配下にするなど、多くの国人衆がひしめき合いました。

室町時代、安土桃山時代

応仁の乱を避けるため京から一条教房が土佐国幡多郡に下向した際、大平氏がこれを協力したとされます。土佐一条氏、長宗我部氏、本山氏などの勢力拡大により戦乱の舞台となりました。三宮氏は能津氏とともに長宗我部氏の配下となり、日下川一帯や仁淀川沿いの地域で支配を維持しました。

江戸時代

慶長5年(1600年)に山内一豊の土佐入国に伴い、土佐藩筆頭家老・深尾重良の所領となりました。深尾氏とともに土着したお抱えの酒造り職人が酒造りを始め、佐川町城下町に商家や日本有数の酒蔵が形成していきました。土佐藩家老・野中兼山は鎌田堰や八田堰を築造して穀倉地帯を潤す一方、日下川に逆流を生じさせ水害がしばしば発生しました。安永元年(1772年)に深尾氏の家塾として名教館が創設し、名教館で学んだ多くの藩士が幕末に明治維新の一翼を担いました。

高知県高岡郡の青源寺庭園

青源寺庭園

青源寺は土佐藩筆頭家老深尾家の菩提寺として、慶長8年(1603年)に創建しました。禅宗庭園らしい枯淡の味わい深い庭園で土佐三大名園のひとつに数えられます。

高知県高岡郡の乗台寺庭園

乗台寺庭園

南北朝時代に創建した乗台寺は、霊験により深尾氏の夫人の難病を治癒した寺院で、その快起と解願祝をかねて土佐の三大名園のひとつとされる庭園が造営されました。

高知県高岡郡の大樽の滝

大樽の滝

4億年以上前の花崗岩の岩肌を流れ落ちる落差34メートルの滝です。深尾家の足軽・篠原与助が美女に化けた大蛇の主と戦い、篠原家に不幸や災難が続出した伝説が残されています。

高知県高岡郡の吉村虎太郎宅跡

吉村虎太郎宅跡

吉村虎太郎は武市半平太らと土佐勤王党を結成し、翌年に中山忠光卿を擁して天誅組を組織しました。土佐の四傑のひとりで討幕を掲げましたが、奈良県鷲家谷で戦死しました。

高知県高岡郡の維新の門

維新の門

幕末には土佐勤王党が活動を活発化させ、土佐藩からの脱藩が相次ぎました。文久2年(1862年)には坂本龍馬が盟友澤村惣之丞とともに韮ヶ峠から脱藩しています。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治22年(1889年)頃から養蚕が始まり、明治28年(1895年)に高岡郡立養蚕所が設置されました。大正4年(1915年)に中土佐町が大火で被害を受け、大正天皇から多額の寄付金が寄せられて大正町が生まれました。昭和57年(1982年)に日下川放水路が完成して水害被害が大幅に軽減されました。平成23年(2011年)に久礼の港と漁師町の景観が国の重要文化的景観に選定されました。

高知県高岡郡の久礼の港と漁師町の景観

久礼の港と漁師町の景観

久礼港は土佐湾が大きく湾入した中土佐町海岸部の中心に存在します。四万十川流域の山林資源の移出港で、鰹漁や鰤漁などの漁業により繁栄した港でもあります。

四万十川流域の文化的景観

四万十川流域の文化的景観は、日本最後の清流と呼ばれる四万十川の豊かな自然環境のほか、川の恵みを受けて災害を乗り越えながら知恵と技術で自然と調和しながら生活した人の営みが一体となり生まれた景観です。上流や源流域は険しい山間部の限られた土地を効率的に利用するため棚田が形成し、豊富な森林資源を生業として人が生活しました。中流から下流域は人や物の流通のため沈下橋が造営され、漁撈や海運を生業とした人びとが生活しました。

高知県高岡郡の四万十川流域の文化的景観 源流域の山村

源流域の山村

四万十川源流域における居住の在り方を示す文化的景観です。沈下橋の原型ともいわれる一本橋など、四万十川の自然的条件に適応しつつ家屋や畑地などが一帯となります。

高知県高岡郡の四万十川流域の文化的景観 上流域の山村と棚田

上流域の山村と棚田

四万十川最大の支流・梼原川の源流域に位置する梼原町は、町面積の9割以上を森林が占めます。耕作に利用できる土地が限られていたため、7割を棚田が占めています。

高知県高岡郡の四万十川流域の文化的景観 上流域の農山村と流通・往来

上流域の農山村と流通・往来

中土佐町大野見地区の文化的景観は、四万十川本流沿いに開かれた農地を中心とした区域と、国有林などの山林を中心とした区域で構成されます。

高知県高岡郡の四万十川流域の文化的景観 中流域の農山村と流通・往来

中流域の農山村と流通・往来

四万十川の中流域四万十町の文化的景観は、大正奥四万十区域、四万十川中流区域、高南台地区域に区分されます。段畑や棚田を耕作し、河川流通を生業とした人が生活しました。