島原市

島原市は、長崎県の南東部にある島原半島の東端に位置しています。島原半島の中央部の眉山から東側の有明海へ伸びる傾斜地の地形を成して、雲仙岳の伏流水が湧き出ている水の町です。江戸時代から松平7万石の城下町として島原半島の政治、経済、教育文化の中枢的地位と役割を果たしてきました。
概要
- 面積
- 82.97km2
- 人口
- 42,434人(2022年2月1日)
- 市の木
- クスノキ
- 市の花
- ウメ
- 地図
歴史
島原市は縄文時代早期から人の営みが残されていますが、沼地が広がる閑散とした土地のため江戸時代まで大きな動きはありませんでした。江戸時代に島原城が築城されて町が整備されますが、これを遠因として島原・天草一揆が起きました。一揆が鎮圧されると島原城を中心として発展し、島原半島の政治・経済の中心地となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代早期に造営された一野遺跡からは、一野式と呼ばれる円筒形条痕文土器が多数発見されています。縄文時代後期には大野原遺跡、縄文時代晩期には礫石原遺跡が造営されました。縄文時代後期から弥生時代中期には小原下遺跡が造営され、弥生時代中期には島原一帯を統治した者の墓標と考えられる景華園遺跡の支石墓掌石が建立されました。
古墳時代、飛鳥時代
島原半島には一部の円墳を除き古墳はあまり造営されませんでした。島原市には古墳時代中期の4世紀末から5世紀末にかけて一野古墳群が造営され、古墳時代後期の6世紀後半には平山古墳が築造されました。
奈良時代、平安時代
特に大きな記録は見受けられませんでした。
鎌倉時代、南北朝時代
特に大きな記録は見受けられませんでした。
室町時代、安土桃山時代
室町時代中期に8代当主有馬貴純は島原半島の勢力基盤を確立しました。10代当主有馬晴純はその勢力をさらに拡大して次男以降を大村家、千々石家、波多家、天草志岐家に養子に送り諸家への影響力を強めました。有馬晴純が隠居して有馬義貞が跡を継ぐと、一族の大村純忠が永禄5年(1564年)にポルトガル船を受け入れてキリスト教に改宗して有馬義貞は南蛮貿易を始めますが、 同年に丹坂峠の戦いで龍造寺隆信に敗れて有馬氏は衰退を始めました。有馬義貞の跡を継いだ有馬晴信は島津義久に救援を求め、天正12年(1585年)に島津氏と有馬氏の連合軍は龍造寺氏を沖田畷の戦いで破りました。

沖田畷古戦場跡
島津・有馬連合軍8千は龍造寺軍2万5千人を迎え撃ちました。龍造寺軍は胸までつかるほどの湿地帯で苦戦して大将・龍造寺隆信は島津軍の川上左京亮に討ち取られました。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に属して加藤清正らと共に小西行長の宇土城を攻めた有馬晴信は日野江藩初代藩主となりましたが、慶長17年(1612年)の岡本大八事件により有馬晴信は斬首され、跡を継いだ有馬直純は慶長19年(1614年)に日向延岡に転封となり元和2年(1616年)に松倉重政が島原に入りました。
島原・天草一揆
松倉重政の跡を継いだ松倉勝家は更に領民に重税を課したうえキリシタンを弾圧したため、不満が爆発した領民は寛永14年(1637年)に島原・天草一揆を起こしました。原城に籠城した一揆勢は幕府軍を相手に壮絶な戦いを繰り広げましたが、寛永15年(1638年)に一揆はほぼ全滅して鎮圧されました。松倉勝家は反乱惹起の責任を問われ斬首刑に処せられました。
島原大変肥後迷惑
寛政4年(1792年)には国内三大難山と言われる眉山が大崩壊し、山崩れと津波で島原領内でも多数の住民が死亡するという大災害に見舞われました。この災難により島原藩は財政に窮乏をきたしたため、栽培した薬草を各藩に売り財政を立て直そうとしました。島原藩主松平忠誠は、天保13年(1842年)にシーボルトの高弟・賀来佐一郎を医師として招いて翌年に藩の医学校・済衆館で薬草の栽培を始めました。

島原城跡
松倉重政が築城を始めましたが、領民に過剰な負担を強いたうえキリスト教を徹底的に弾圧したため、島原・天草一揆が発生する遠因となりました。

島原城下町
島原城を中心に藩士の居住地だけではなく町人の居住地、寺社、湊などが区割りされました。湧き出てきた雲仙岳の伏流水が水路を流れます。

まだれいな銘キリシタン墓碑
島原半島はキリシタン信仰が盛んで百基あまりの墓地が残されています。島原市にはカルワリオ十字紋が平彫りされているまだれいなと刻まれた墓碑が残ります。

旧島原藩薬園跡
済衆館の薬園は薬草の栽培に不向きで、弘化3年(1846年)に藩臣飯島義角を薬園主任として雲仙岳眉山の麓を開墾して嘉永6年(1853年)に島原藩薬園を完成させました。
明治時代、大正時代、昭和時代
平成2年(1990年)から活動を始めた普賢岳は、翌年に大火砕流が発生して多くの人命が失われました。