歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

諫早市

長崎県諫早市の眼鏡橋

諫早市は長崎県のほぼ中央部に位置して東は有明海、西は大村湾、南は橘湾と三方が海に面しています。中央部を流れる本明川は市街地を貫流して有明海に注ぎ、下流にある諫早平野は古くから干拓が進められ県下最大の穀倉地を形成しています。

概要

面積
341.79km2
人口
132,944人(2022年2月1日)
市の木
ヒゼンマユミ
市の花
ツクシシャクナゲ
地図

歴史

諫早市は旧石器時代から人の営みがありました。やがて西郷氏が諫早を統一して、高城(諫早城)を築城して戦国時代末まで統治しました。その後、龍造寺氏が統治するようになり諫早を姓としました。諫早氏は江戸時代も佐賀藩の名代として諫早を統治して明治時代を迎えました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

諫早市は西輪久道遺跡や鷹野遺跡、柿崎遺跡など旧石器時代の遺跡が造営されています。縄文時代早期の川頭遺跡や縄文時代中期から後期の有喜貝塚ほか、弥生時代になると支石墓と呼ばれる埋葬法を取り入れた風観岳支石墓群や井崎支石墓が造営されています。

諫早市の川頭遺跡

川頭遺跡

から住居跡2棟が発見されています。

古墳時代、飛鳥時代

有明海沿岸、橘湾沿岸などで横穴式石室をもつ善神さん古墳や大峰古墳、長戸鬼塚古墳が造営されました。大峰古墳は石室に石棚が設けられる長崎県唯一の古墳です。

諫早市の長戸鬼塚古墳

長戸鬼塚古墳

7世紀前半頃に有明海に突出した標高10メートルほどの丘陵先端部に築造された直径15メートル、高さ5メートルの円墳です。

奈良時代、平安時代

日本が律令国家となると、租税徴収を容易にするため土地を碁盤目状に区画されました。田井原条里遺跡や小野条里遺跡、田結条里などにその名残が残ります。

鎌倉時代、南北朝時代

南北朝時代になると荘園勢力は完全に消え去り、激しい領主交替が行われました。埋津川を境にして南側は宇木城を居城とする西郷氏が南朝方に、北側は船越城を居城とする伊佐早氏が北朝方について対立しました。

室町時代、安土桃山時代

戦国時代に西郷尚善が諫早を治めるようになり用水路整備、干拓や開墾などに取り組みました。孫の西郷純尭の頃には島原の有馬氏、平戸の松浦氏や大村氏とともに有力な豪族となりますが、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐で西郷信尚はこれに従わず所領を没収されました。所領は龍造寺家晴に与えられましたが、西郷氏は明け渡しに抵抗したため龍造寺家晴は諫早城(高城)を攻め取りました。西郷氏の旧臣・山崎教清は龍造寺家晴に干拓を願い出て諫早の干拓の祖となり、2代龍造寺直孝は姓を諫早に改めています。

長崎県諫早市の高城(諫早城)

高城(諫早城)

文明6年(1474)年頃に高城を築き、外敵の侵入を防ぐために沖城、江城、真崎城、古田城などの支城を築きました。

江戸時代

慶長12年(1607年)に龍造寺氏から鍋島家に領主が代わり、鍋島勝茂を初代とする佐賀藩が成立しました。諫早家は明治時代まで佐賀藩諫早領として藩政の一翼を担いつつ、佐賀藩が諫早に代官所を置いて政治、経済の支配体制を強化していきました。諫早は長崎街道から島原街道などへの分岐点として栄えていきました。

長崎県諫早市の諫早家墓所

諫早家墓所

天祐寺境内にある諫早家の墓所で、慶長18年(1613年)の初代家晴から大正2年(1913年)の18代家興までの諫早一族の墓碑が並びます。

長崎県諫早市の琴尾山烽火台跡

琴尾山烽火台跡

長崎港に外国船が侵入するなどの異変を伝達する施設として烽火山にのろしで知らせる施設を造営されました。

長崎県諫早市の大雄寺の五百羅漢

大雄寺の五百羅漢

元禄12年(1699年)の本明川の水害を始め、洪水と干ばつが繰り返して多くの人が亡くなり、7代領主諫早茂晴は大雄寺を建立して犠牲者を追悼しました。

長崎県諫早市の眼鏡橋

眼鏡橋

天保10年(1839年)にはアーチ式の石橋である眼鏡橋が架橋されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

昭和15年(1940年)に諫早町と周辺6村が合併して諫早氏が誕生しました。本明川は水害を引き起こし、昭和32年(1957年)には大水害を引き起こして大きな被害を起こしました。それから復興を遂げて中核都市として役割を担い、平成17年(2005年)には諫早市、飯盛町、森山町、高来町、小長井町、多良見町が合併して新しい諫早市が誕生しました。