大村市

大村市は長崎県の中心の大村湾の東部に位置し、多良山系と大村湾に囲まれた自然豊かな地域です。古くから農業が盛んで肥沃な黒土を活かして黒田五寸人参などの露地野菜が栽培されています。長崎空港を有して空の窓口となり、西九州新幹線が開通して広域交通の要衝となりました。
概要
- 面積
- 126.64km2
- 人口
- 96,086人(2022年2月1日)
- 市の木
- イチイガシ
- 市の花
- おおむらざくら
- 地図
歴史
在地豪族の大村氏は日本で初めてキリシタン大名となり、南蛮貿易を行うようになりました。大村氏は戦乱の世でも生き抜き、江戸時代に大村藩を立藩しました。幕府の禁教令により大村氏はキリスト教から改宗しましたが、領民は隠れキリシタンとなり、郡崩れと呼ばれるキリシタンの弾圧が起こりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
約2万年前の寒冷期は大村湾は陸地でした。野岳遺跡をはじめとしてナイフ形石器などの旧石器が出土しています。縄文海進により大村湾が形成すると、野田の久保遺跡などで狩猟採取のほか漁撈活動が行われました。弥生時代には水上交通が発達して交流が盛んになり、黒丸遺跡は大村湾岸最大の拠点集落となり、富の原遺跡、岩名遺跡、冷泉遺跡などの甕棺墓や石棺墓から鉄製武器などが出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代中期に小佐古石棺群や黄金山古墳が造営され、後期には小路口・鬼の穴古墳、玖島崎古墳、終末期には野田古墳群が造営されています。火国(肥後)、豊国(豊前・豊後)、肥国(肥前・肥後)に勢力を広げた筑紫国造・磐井は、継体天皇21年(527年)に磐井の乱を起こしました。
奈良時代、平安時代
大化の改新により律令体制が成立すると、大村市内に彼杵郡衙が置かれました。彼杵荘は京都仁和寺の社領とされました。寿古町の寿古遺跡から須恵器、輸入陶磁器などが出土しています。諸説ありますが、正暦5年(994年)に藤原直澄が四国から入部して大村姓を名乗るようになりました。
鎌倉時代、南北朝時代
今富氏、田崎氏、大村氏などの土豪が支配しました。文治2年(1186年)に天野遠景が鎮西奉行に就任し、建仁3年(1203年)に彼杵・藤津庄惣地頭職に就任しています。
室町時代、安土桃山時代
大村純前は実子の貴明を武雄の後藤氏の養子に出し、有馬から養子を迎えて大村純忠としました。後藤貴明は大村純忠を恨み、永禄9年(1566年)に鳥越・伊理宇の合戦に発展しました。永禄7年(1564年)に大村純忠は三城城を築城し、横瀬浦、福田、長崎を開港して南蛮貿易を行い日本初のキリシタン大名となり家臣や領民にキリスト教への改修を薦めました。
江戸時代
長崎から小倉を結んぶ長崎街道が整備され、本陣のある大村宿、鍛冶町の松原宿が置かれました。慶長17年(1612年)に幕府がキリスト教禁教令が出されると、元和3年(1617年)にフランシスコ会のフラーデ・ペドロ・デ・ラ・アスンシオン神父とイエズス会のジョアン・バティスタ・マシャード神父が今富町の帯取で処刑されました。明暦3年(1657年)に郡村で潜伏キリシタンが発覚し、郡崩れと呼ばれる厳しいキリシタン弾圧で多くのキリシタンが処刑されました。

玖島城跡
初代藩主大村喜前が慶長4年(1599年)に築城し、慶長19年(1614年)に2代藩主大村純頼が大改修をしました。

大村藩主大村家墓所
日本初のキリシタン大名大村純忠の子である大村喜前は、キリスト教禁制の動きで日蓮宗に改宗して本経寺を建立して大村家の菩提寺としました。

旧円融寺庭園
承応元年(1652年)に4代藩主大村純長が創建した円融寺に造営されていた庭園で、明治元年の廃寺に伴い荒廃したものが再整備されました。

五教館御成門
4代藩主大村純長が寛文10年(1670)に開設した藩校集義館は、寛政2年(1790年)に9代藩主大村純鎮が学問所の五教館と武道場の治振軒に分けました。

大村藩お船蔵跡
元禄年間(1688~1703年)に4代藩主大村純長が築造した船蔵で、大村氏の居城玖島城に附属しています。

今富のキリシタン墓碑
台付干十字紋を刻んだ典型的なキリシタン墓碑で、慶長19年(1614年)の銘が刻まれています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で大村藩が大村県となり、翌年に大村県が廃されて長崎県となりました。大正12年(1923年)に海軍航空隊が設置され、昭和16年(1941年)には東洋一と言われた飛行機製作工場の第21海軍航空廠が置かれました。昭和19年(1944年)に空襲を受けて荒廃しましたが、復興を遂げて昭和50年(1975年)に世界初の海上空港である長崎空港が完成しました。