歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

平戸市

長崎県平戸市の春日集落

平戸市は九州本土の西北端に位置し、平戸瀬戸を隔てて南北に長い平戸島とその周辺から構成されます。平坦地が少なく起伏が多い地形で、平戸島と生月島の西海岸の周辺は西海国立公園に指定されてます。日本有数の漁港を有しており、特に鮮度抜群の天然ひらめの産地として有名です。

概要

面積
235.09km2
人口
28,672人(2022年2月1日)
市の木
マキ
市の花
ヒラドツツジ
地図

歴史

松浦氏の城下町である平戸市は、古くから中国大陸との交易地であり16世紀にポルトガル船が入港してからは南蛮貿易の開港場として国際交流の拠点として栄えました。中世から松浦氏の城下町として栄え、江戸時代後期からは捕鯨が盛んに行われました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

平戸市は、一部の集団が朝鮮半島から移住してきて氷河期の旧石器時代の遺跡が多く分布しました。縄文時代に定住化が進み魚貝や海藻などを採集する漁労が行われて朝鮮半島との交流が盛んに行われていました。弥生時代に水田稲作が大陸からもたらされるようになり、平戸島西海岸にある根獅子遺跡では沖縄・奄美地方との交流を示唆する南海産ゴホウラ製貝輪が出土しています。

長崎県平戸市の平戸瀬戸

平戸瀬戸

平戸瀬戸で本州本土から隔てられている平戸島は、古くから海上交通の要衝として、大陸や沖縄・奄美地方と交流がありました。

長崎県平戸市の里田原遺跡

里田原遺跡

弥生時代の水田遺構が残され、水田遺構とともに農耕に関する多くの木器が発掘されています。

古墳時代、飛鳥時代

北松浦半島の田平地区に笠松天神社古墳と岳崎古墳の2基の前方後円墳が造営され、生月島や的山大島、度島、平戸島北部には小規模な円墳が造営されました。生月島の小円墳は海上交通や漁労活動を生業とする集団の指導者の墓と考えられます。

長崎県平戸市の笠松天神社古墳

笠松天神社古墳

4世紀中頃に築造された前方後円墳で、弥生時代から続く里田原遺跡の有力者の墓と伝えられています。

長崎県平戸市の岳崎古墳

岳崎古墳

4世紀末から5世紀前半に造営された墳長60メートルある大型の前方後円墳で、高塚式古墳の造営は大和政権との関係が示唆されています。

奈良時代、平安時代

7世紀から大和朝廷は遣隋使や遣唐使を派遣しましました。朝鮮半島西岸を北上する航路を利用しましたが、大宝2年(702年)から博多湾から平戸と五島を経て、東シナ海を横断する南路(大洋路)を利用するようになりました。中国宋のころから中国では北方の騎馬民族と戦うために火薬兵器を用いるようになり、火薬の原料の一つである硫黄が九州南端沖の硫黄島で採掘されて南路を経由して中国大陸に運ばれました。

長崎県平戸市の平戸の六角井戸

平戸の六角井戸

寛平6年(894年)に菅原道真の建議で遣唐使が廃止されますが、新羅や唐の民間海商の活動は継続しました。平戸の六角井戸は唐人関係、倭寇関係遺跡として伝承されています。

長崎県平戸市の式内社志々伎神社跡

式内社志々伎神社跡

平安時代の延喜式に記載がある古社で、海上交通の守護のため朝廷から遣わされたとされる十城別王が祭神のひとつとして祀られます。

鎌倉時代、南北朝時代

平安時代末期から臨済宗の栄西や曹洞宗の道元など、禅宗を修めるために僧侶が渡宋したことで、南路沿岸に建立された禅宗寺院は貿易や外交に伴う役割を担いました。元仁2年(1225年)には、平戸松浦氏の祖である峰持が小値賀島から平戸に移り、館山に館を築いて治めるようになりました。

長崎県平戸市の冨春庵

冨春庵

建久2年(1191年)に留学先の南宋から平戸島に帰着した臨済宗開祖の栄西の住まいで、日本で初めて禅宗を伝えました。

長崎県平戸市の冨春庵茶畑跡

冨春庵茶畑跡

冨春庵を住まいとした栄西は南宋から茶を持ち帰り、冨春庵の裏山に日本で初めて茶畑を作りました。

室町時代、安土桃山時代

天文19年(1550年)にポルトガル船が初めて平戸に来航し、フランシスコ・ザビエルも平戸を訪れました。貿易による発展への期待を寄せた松浦隆信はキリスト教の布教も認め、永禄元年(1558年)と永禄7年(1565年)に生月島、度島、平戸島西岸の籠手田や一部領でキリスト教への一斉改宗が行われました。

長崎県平戸市の中野窯跡

中野窯跡

松浦鎮信が朝鮮出兵から同行させた朝鮮熊川出身の巨関と頓六らが慶長3年(1598年)に開いた窯跡で、日本最西端の古唐津系陶器窯跡となりました。

長崎県平戸市の平戸城

平戸城

家臣団の再編や領国支配の強化を進めるため、慶長4年(1599年)に松浦鎮信が日の岳に平戸城の築城を始めました。

江戸時代

寛永14年(1637年)に島原の乱が起こりポルトガルとの関係が悪化すると、寛永16年(1639年)にはポルトガル船の来航が禁止されました。寛永18年(1641年)には幕府の命令でオランダ商館が長崎出島に移されて鎖国体制を敷くようになり、平戸は長らく海外貿易港としての歴史に幕を閉じました。

長崎県平戸市の平戸和蘭商館跡

平戸和蘭商館跡

慶長14年(1609年)にオランダ船が来航して設けられました。平戸はイギリス商館も置かれて海外交易の窓口となりましたが、鎖国により長崎出島に移転しました。

長崎県平戸市のコックスの甘藷畑跡

コックスの甘藷畑跡

平戸英国商館長リチャード・コックスは、日本で初めて甘藷を栽培する畑を設けました。

長崎県平戸市の焼罪史跡公園

焼罪史跡公園

マカオに追放されたイタリア人宣教師カミロ・コンスタンツォは、日本に再潜入して布教したため平戸領内で捕えられて元和8年(1622年)に火刑に処されました。

長崎県平戸市の中江ノ島

中江ノ島

カミロ神父を助けた生月島や平戸の信徒たちが処刑された地で、潜伏キリシタンが聖水を汲む聖地として伝承されていきました。

長崎県平戸市の鄭成功居宅跡

鄭成功居宅跡

中国人海商鄭芝龍の子・鄭成功は清朝から攻められていた明朝を助けるために中国に渡り、反抗の拠点として台湾からオランダ人を追い出し、台湾解放の英雄と称されました。

長崎県平戸市の鯨組主益冨家居宅跡

鯨組主益冨家居宅跡

益冨又左衛門は享保10年(1725年)から明治時代初期まで生月島、壱岐、五島灘などで捕鯨業を営み、日本で最大の鯨組主となりました。

長崎県平戸市の積徳堂跡

積徳堂跡

延享2年(1745年)に山鹿素行の孫・山鹿高通が江戸浅草から移した山鹿流の兵学の学問所で、平戸藩の学問兵学の中心道場として多くの人材を輩出しました。

長崎県平戸市の梅ヶ谷津偕楽園

梅ヶ谷津偕楽園

10代藩主松浦熈は平戸城の城下とその郊外に2つの別邸を構え、梅ヶ谷津偕楽園を天保10年(1839年)に、棲霞園を文政12年(1829年)に完成させました。

明治時代、大正時代、昭和時代

安政5年(1858年)にアメリカと日米修好通商条約を締結して自由貿易が許可されると、元治2年(1865年)には長崎に外国人居留者のための大浦天主堂が開設されました。各地の潜伏キリシタンは大浦天主堂の宣教師に接触するようになりましたが、役人に捕らえられて弾圧された集落もありました。こうした弾圧に対して欧米からの抗議が相次ぎ、明治政府は明治6年(1873年)に禁教令を撤廃します。信教の自由を得たキリシタンたちは、正式にカトリックに復帰して各地に教会を建てるようになりました。

長崎県平戸市の春日集落

春日集落

潜伏キリシタンの集落で、古くから山岳信仰の霊場である安満岳を聖なる山として拝む独特な宗教体系を育み、現在も継承されています。

長崎県平戸市の田平教会堂

田平教会堂

大正7年(1918年)に中田藤吉神父が寄付を募り、鉄川与助が設計・施工した最後のレンガ造教会です。