松浦市

松浦市は、北松浦半島北部に位置し北は玄界灘から伊万里湾の海域に面しています。内陸部は平地が少なく、その大部分が丘陵地で志佐川や今福川が貫流しています。全国屈指の漁業の町で、特に国内でも有数のアジやサバの産地として知られます。
概要
- 面積
- 130.55km2
- 人口
- 20,723人(2022年2月1日)
- 市の木
- マキ
- 市の花
- ツバキ
- 地図
歴史
黒曜石の産地である松浦市は、旧石器時代から人びとが石器を使用して生活しました。平安時代になると水軍を中心とした武士組織の松浦党が結成して、梶谷城を拠点として勢力を広げました。松浦党は鎌倉時代の元寇でも活躍し、暴風雨も重なることで元軍は鷹島の周辺に沈没しました。やがて松浦党は一族で争うようになり、平戸松戸氏が影響を強めて松浦市域を支配しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
松浦市は星鹿島や伊万里市の腰岳が黒曜石の産地として石材が入手しやすい環境にありました。このため北松浦半島には旧石器時代や縄文時代の遺跡が多く、旧石器時代の遺跡は46カ所、縄文時代の遺跡は94カ所も発見されています。また、大陸と日本を結ぶ重要なルートで、3世紀末に編纂された魏志倭人伝に末盧(松浦)と記されています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代には小嶋古墳群、横島古墳や小嶋古墳、鷹島に薫崎鬼塚古墳、宝ヶ峯古墳群が造営されています。これらの古墳はいずれも円墳で、横穴式石室が用いられています。
奈良時代、平安時代
平安時代後期には、河原左大臣源融を祖とする松浦党と呼ばれる水軍を中心とした武士団が結成されました。延久元年(1069年)に源久が摂津国渡辺荘から肥前国松浦郡志佐郷今福に下向して宇野御厨の荘官となり、北松浦半島の北部の標高197メートルの山に梶谷城を築城して居城としました。

松浦党梶谷城跡
平家に服従していた松浦党は梶谷城を拠点としました。壇ノ浦の戦いで源氏に与したことで鎌倉幕府から地頭や御家人に任ぜられました。
鎌倉時代、南北朝時代
文永11年(1274年)の文永の役において、鷹島に上陸した元軍は島民のほとんどを虐殺しました。松浦党も参戦して多くの者が討死しています。弘安4年(1281年)に再び襲来した弘安の役では、激しい暴風雨により元軍の船団は沈没しました。このときの元軍の残兵は鷹島に上陸しましたが、鎮西奉行少弐経資の弟である少弐景資が1週間に渡る戦いで残兵を駆逐しました。鷹島にはこの戦闘で戦死した壱岐の石田五郎為治、西牟田弥五郎の墓が残されています。

対馬小太郎の墓
対馬国から元軍の襲来を太宰府に知らせた対馬小太郎と兵衛次郎は、少弐景資の配下として鷹島で奮戦しましたが戦死しました。

鷹島神崎遺跡
沈没した地点からは壺類や刀剣、碇石などが引き上げられ、日本で初めて海底遺跡として指定されました。
室町時代、安土桃山時代
南北朝時代以降は近隣領主との争いや内紛が起こりました。松浦氏宗家の松浦盛は、長禄3年(1457年)に南部の相神浦を開いて朝鮮との歳遣船貿易を行いました。相神浦松浦氏の松浦親は、永禄6年(1563年)に平戸松浦氏の松浦隆信に滅ぼされて、松浦市は平戸松浦氏の支配下に置かれました。

宗家松浦家13代盛公の墓
寛正3年(1460年)頃に相神浦に武辺城を築城して今福から拠点を移し、松浦氏発祥の梶谷城は相神浦松浦氏の支城としました。

文禄の役松浦家供養塔
文禄元年(1592年)に豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄の役で、今福松浦家から松浦定ほか7名の将士が小西行長に従い出兵しましたが、翌年に朝鮮の平安道で戦死しました。
江戸時代
松浦市には平戸藩の藩庁は置かれず、大きな歴史的な記録は見つけられませんでした。
明治時代、大正時代、昭和時代
江戸時代に北松浦半島一帯で発見された北松炭鉱は、明治時代から採掘されて太平洋戦争後の高度経済成長を支えました。昭和40年代に石炭から石油へのエネルギー革命により炭鉱はすべて閉山となり、現在は石炭火力発電所が立地するエネルギーの街となりました。