雲仙市

雲仙市は、島原半島の北西部に位置し西岸に橘湾、東岸は有明海に面しています。日本最初の国立公園である雲仙天草国立公園が広がり古くから温泉地として賑わいました。火山がもたらす肥沃な大地は雲仙野菜が実り、山間部では酪農が盛んです。
概要
- 面積
- 214.31km2
- 人口
- 40,494人(2022年2月1日)
- 市の木
- ヤマボウシ
- 市の花
- ミヤマキリシマ
- 地図
歴史
雲仙市は旧石器時代から人の営みがあり、古墳時代には島原半島で唯一の前方後円墳が造営されています。奈良時代には行基が訪れて満明寺を開山してから、雲仙岳は山岳信仰の聖地となりました。鎌倉時代から神代氏が地頭となり有馬氏や龍造寺氏に臣従しながら存続し、江戸時代には島原藩と佐賀藩が領有しました。明治時代からは第二次世界大戦まで西洋人の避暑地として賑わいました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
雲仙市には旧石器時代の遺跡が存在しています。雲仙普賢岳の北東側にある百花台遺跡は平安時代まで人が生活した痕跡が残り、旧石器時代のナイフ形石器や台形石器と呼ばれる黒曜石の石器が出土しています。縄文時代早期には橘湾側に押型文土器が発見された弘法原遺跡が造営され、縄文時代中期には国崎半島に奈良時代まで続く国崎遺跡が残されてます。縄文時代晩期には集落跡と考えられる朝日山遺跡が造営されています。
古墳時代、飛鳥時代
雲仙岳からのびる扇状台地の北端に鬼の岩屋と呼ばれる古墳が造営され、古墳時代前期には島原半島の付け根に島原半島で唯一の前方後円墳である守山大塚古墳が造営されています。古墳時代後期には横穴式石室がある円墳の柿ノ本古墳や一本松遺跡と呼ばれる地元で有力な豪族を埋葬した復室構造の横穴式石室が見つかりました。

雲仙岳
瓊瓊杵尊が天から地に降臨した天孫降臨の神話は日向国(宮崎県)の高千穂が有力視されていますが、雲仙岳に降臨して日向に移動した伝承も残されています。

鬼の岩屋
6世紀中頃に築造された旧状円墳と考えられる古墳で、墳丘は流失して横穴式石室が露出しています。壁面には赤色顔料で装飾され6世紀末頃まで追葬が行われました。
奈良時代、平安時代
奈良時代には行基が訪れて大宝元年(701年)に満明寺を開山したと伝わります。肥前国高来郡の代表的な寺院が建立されたと考えられており、五万長者遺跡からは古瓦が見つかりました。こうした背景から、雲仙では平安時代末期から鎌倉時代以降に山岳信仰が結び付いた修行が盛んになり、大黒天磨崖仏が造営されました。
鎌倉時代、南北朝時代
神代荘の地頭神代氏は鶴亀城を居城としており、弘安4年(1281)の元寇にも出兵しました。このとき雲仙神社の温泉四面神が戦場に現れ、元軍を倒したとの伝説が残ります。神代貴益は難攻不落の城に整備し、鶴亀城は南北朝時代から戦国時代にかけて何度も攻められましたが落城することはありませんでした。
室町時代、安土桃山時代
島原の有馬氏と肥前国龍造寺氏が争うようになると、神代氏は有馬氏から龍造寺氏に臣従先を変えました。天正12年(1584)に龍造寺氏と島津・有馬連合軍が沖田畷で激突すると、神代貴茂は龍造寺側として出陣しました。龍造寺隆信が討死してもなお龍造寺側として鶴亀城に籠城して抵抗しましたが、有馬氏に和議を申し込んだ宴席で神代貴茂は誅殺されました。神代領は天正15年(1587)の九州討伐の整理で鍋島藩初代藩主となる鍋島直茂に与えられました。
キリスト教の普及
室町時代後期にスペインやポルトガルの南蛮船が来航すると、永禄6年(1563年)からキリスト教が布教されるようになりました。領民にキリスト教が浸透していくと雲仙岳の山岳信仰は荒廃していき、南蛮人は古来から霊山として名高い雲仙岳の領有を望みました。有馬氏は同盟している島津氏が敬虔な仏教徒であることに配慮し、代わりに長崎を寄進しています。やがて豊臣秀吉の伴天連追放令により厳しい弾圧が始まると、長崎奉行は踏絵を考案してキリシタンを炙り出して雲仙地獄のお湯で地獄責めの刑に処しました。
江戸時代
江戸時代の雲仙市は島原藩と佐賀藩に属していました。寛永14年(1637年)に勃発した島原・天草一揆が鎮圧されると無人地帯となり、残されたキリスト教徒は密かに信仰を続けました。神代鍋島家の4代当主鍋島嵩就は、神代小路地区に鍋島邸を造営して寛文3年(1663年)に居を移して武家屋敷を整備しました。承応2年(1653年)には雲仙が温泉地として賑わうようになりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
雲仙市の地域は明治4年(1871年)の廃藩置県により島原県に属してすぐに長崎県の管轄となりました。明治時代に長崎~上海の航路が開かれて中国大陸との窓口となると、第二次世界大戦まで雲仙は西洋人の避暑地として栄えました。雲仙市は平成17年(2005年)に国見町・瑞穂町・吾妻町・愛野町・千々石町・小浜町・南串山町が合併して誕生しました。
雲仙市に残るキリシタン墓碑

小浜町土手之元のキリシタン墓碑
花十字紋入り半円柱形柱状伏碑1基と板状切妻形伏碑3基からなり、天草・島原一揆より前のキリシタン共同墓地と言われます。

小浜町椎山のキリシタン墓碑
小型の十字紋入り半円柱形柱状伏碑型の墓碑で、正面軸部に浅い窪みに花十字紋が平彫りされています。

小浜町茂無田のキリシタン墓碑
無紋無銘の台付樽型の墓碑で、無紋無銘ながら大形で保存も良い数少ない樽型墓碑です。

南串山町のキリシタン墓碑
板状扁平形伏碑で、洗礼名の里阿ん(リアン)の右側面に慶長十一年、左側面に九月三日が刻まれている日本最古の碑銘がある墓碑です。