東彼杵郡

東彼杵郡は長崎県の本土中部で大村湾北岸に位置し、川棚川が形成した肥沃な平野では古くから農業が盛んです。長崎街道沿いは江戸時代に海外の砂糖と菓子文化が広まり、シュガーロードと呼ばれるようになりました。
概要
- 面積
- 167.53km2
- 人口
- 34,932人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 東彼杵町、川棚町、波佐見町
- 地図
歴史
キリスト教が伝来すると、領主の大村氏が日本初のキリシタン大名となり、領民もキリスト教に改宗しました。のちにキリスト教が禁教となると、隠れキリシタンとなり多くのキリシタン墓碑が生まれました。長崎街道が整備されると平戸街道の起点として、捕鯨と鯨肉取引の中心地として栄えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
村木郷畠原、平野郷栗林で旧石器時代のナイフ型石器が発見されています。山角・耳取堤では縄文中期の土器石器類が出土しました。
古墳時代、飛鳥時代
3~4世紀の箱式石棺6基からなる徳島古墳の石棺群が残されています。

彼杵の古墳
ひさご塚と呼ばれる5世紀の前方後円墳で、神功皇后の三韓征伐で武内宿禰の配下として従軍した武将の墓と伝えられます。
奈良時代、平安時代
天平14年(742年)に金屋神社が建立されました。
鎌倉時代、南北朝時代
河棚氏や波佐見氏が武士団を形成しました。観応元年(1350年)には波佐見六郎俊平が足利直冬に従い筑前の月隅城を攻めています。
室町時代、安土桃山時代
キリスト教が広まり、天正2年(1574年)に多くの寺社が焼き払われました。豊臣秀吉のバテレン禁止令により京都や大坂などで捕えられたキリシタン26名が彼杵から船で長崎まで連行されて、慶長2年(1597年)に西坂で処刑されました。
江戸時代
江戸時代に整備された長崎街道は、海外から大量の砂糖が運搬されたためシュガーロードと呼ばれました。彼杵宿と千綿宿は平戸街道の起点として捕鯨と鯨肉取引の中心地として栄えました。永尾・三股・中尾地区から磁器の原料となる陶石(風化流紋岩)が発見され、陶磁器の生産が始まりました。

肥前波佐見陶磁器窯跡
畑ノ原窯跡、 三股青磁窯跡、長田山窯跡、中尾上登窯跡、永尾本登窯跡と大村藩が窯業指導した皿山役所跡、陶石を採掘した三股砥石川陶石採石場からなります。

三方境傍示石(三領石)
燃料の薪などの伐採を巡り紛争が絶えないため、寛保2年(1742年)に大村藩、平戸藩、佐賀藩で藩境を明確にしました。

波佐見町のキリシタン墓碑群
十字紋を陰刻しただけの自然石立碑で、明暦2年(1656年)の郡崩れ以降は取り締まりが厳しいため、それ以前のものと考えられています。

川棚町のキリシタン墓碑
ローマ字組み合わせ紋様を持つ自然石立碑で、明和8年(1622年)に死亡した富永二介妻の銘が刻まれています。

東彼杵のキリシタン墓碑
右側は寛永20年(1643年)年の銘があり、左側の墓碑には元和七年(1621年)一瀬志ゅ阿ん(ジュアン)と刻まれます。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により大村県を経て長崎県となりました。明治29年(1896年)に山本作左衛門が発見した金鉱脈は大正3年(1914年)まで採掘されました。太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に川棚海軍工廠が建設され、魚雷試験場や特攻隊震洋の訓練施設などが置かれました。

智惠治登窯跡
明治期操業の階段状連房式登窯で、昭和27年(1952年)に廃窯しました。現在は胴木間3室が現存しています。