歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

北松浦郡

長崎県北松浦郡小値賀町

北松浦郡は大小17の島からなる小値賀諸島と九州本土の佐世保市に囲まれる佐々町からなります。小値賀諸島は大陸との交易の経由地として栄えました。佐々町は大正時代から昭和時代まで炭鉱の町として栄えましたが、エネルギー革命により石炭から石油に代わり、炭鉱が閉山に追い込まれて閑静な町となりました。

概要

面積
57.79km2
人口
16,101人(2022年2月1日)
含む町村
小値賀町、佐々町
地図

歴史

北松浦郡の歴史は旧石器時代に始まります。小値賀島は島のどこからも縄文時代の遺物が出土すると言われています。遣唐使船が派遣されてから外国への窓口として栄え、最古の倭寇と言われる清原氏が所領を没収されると松浦氏が領有するようになりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代は最終氷河期は小値賀島は九州本土と陸続きでした。小値賀島のオオサコ遺跡からは、朝鮮半島を起源とする旧石器時代の剥片尖頭器が出土しており、同じく小値賀島のヌゲ遺跡や玉石鼻遺跡などからも旧石器が発見されています。縄文時代には狸山支石墓群が造営され、弥生時代から神ノ崎遺跡が造営されました。

長崎県北松浦郡の狸山支石墓群

狸山支石墓群

佐々川中流西岸に近い微高地に縄文時代中期から晩期に造営された石墓群で、巨石を複数の支石で支えた小型な箱式石棺7基が現存しています。

長崎県北松浦郡の神ノ崎遺跡

神ノ崎遺跡

古墳時代の墳墓で五島列島唯一の遺跡で、弥生時代から古墳時代にかけて造営されました。石棺群には大陸伝来の支石墓も含まれています。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代の遺跡としては、小値賀島には神ノ崎遺跡の石棺墓ほか神万古墳や水の下古墳が造営されました。神万古墳は6世紀に造営され、水の下古墳は7世紀に造営された横穴式古墳でしたが、墳丘は原型を失い削平されています。

奈良時代、平安時代

中国大陸から文化を取り入れようとした朝廷は、遣唐使を派遣するようになりました。大宝2年(702年)から五島列島を経由するルートとなり、大陸と日本を繋ぐ航路上にある小値賀島は重要な寄港地として栄えました。神島神社や慶雲元年(704年)に創建した沖の神島神社は、大陸までの安全な航行を祈願する役割がありました。

太宰府に食料を貢納する宇野御厨荘が成立すると、清原氏が荘官として膳所城を築城して治めました。清原是包は仁平2年(1152年)に高麗船への海賊行為により知行を失い、やがて一族による知行争いにより松浦党が台頭していくことになります。

鎌倉時代、南北朝時代

豪族の峯披は、建久3年(1192年)に鎌倉幕府から宇野御厨の地頭に任ぜられ、小値賀島から平戸に移り平戸松浦氏の基礎を築きました。小値賀島は峯披の弟である松浦連が承久元年(1219年)に松浦持に譲り、幕府も松浦持を地頭に任じました。松浦一族は小値賀島に本城岳城を築いて外国との貿易を行いました。

室町時代、安土桃山時代

北松浦半島一帯は、平戸松浦氏と相神浦松浦氏(宗家松浦氏)との間で覇権を巡る合戦が繰り広げられました。永禄6年(1563年)の半坂合戦では、医王山東光寺の豪僧伝育が平戸松浦氏に加勢して多くの敵兵を樫の棍棒でなぎ倒した伝説が残ります。

江戸時代

佐々町は平戸藩松浦氏の統治下で有数の水田・塩田地帯となりました。八幡浦(壱岐市)より小値賀に移住した小田家は捕鯨、新田開発や殖産振興、海産・廻船業、酒造業を営み、豪商として地域の経済的な発展に貢献しました。

長崎県北松浦郡の市ノ瀬窯跡

市ノ瀬窯跡

三川内の陶工福本新左衛門が開窯し、尾張国瀬戸の陶工加藤民吉が文化元年(1804年)に3年かけて住みこんで陶器の製法を盗み瀬戸焼の祖となりました。

長崎県北松浦郡の福元九兵衛墓

福元九兵衛墓

宝暦元年(1751年)に陶工福本新左衛門が市瀬村へ移り住み市ノ瀬窯を開窯しました。墓碑には寛政8年(1796年)の銘があります。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で平戸県を経て長崎県の管轄となりました。キリスト教の禁教が解かれると、潜伏キリシタンが移り住んだ野崎島の野首地区には明治41年(1908年)に17世帯の信者たちが数年に亘る倹約生活で貯めた資金で旧野首教会を建立しています。江戸時代に発見された北松炭田は、明治時代に近代的設備を整えた炭鉱が相次いで開かれました。佐々町は昭和40年代まで炭鉱の町として栄えました。