歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

荒尾市

熊本県荒尾市の三井グリーンランド

荒尾市は熊本県北西部に位置し、福岡県と隣接しています。東部には小岱山があり、西部は有明海に面して緩やかな丘陵を形成しています。河川流域の低地には水田地帯が広がり、丘陵地では特産の荒尾梨やみかん等の果樹園が形成しています。

概要

面積
57.37km2
人口
49,923人(2022年2月1日)
市の木
小岱松
市の花
梨の花
市の鳥
シロチドリ
市の魚
マジャク
マスコット
マジャッキー
地図

歴史

荒尾市市域は小岱山一帯は工業地帯を形成し、多数の須恵器の窯が築かれたほか砂鉄製錬業が発達しました。平安時代に玉名市域にかけて広大な野原荘が整備されました。明治時代には殖産興業に欠かせない石炭の産地として、人家の集積が進み市街地が形成しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の遺跡は発見されておらず、縄文時代後期から人が住みはじめたと考えられています。縄文時代から古墳時代の人の営みが有明海沿岸や海岸線に近い台地などに分布しています。

古墳時代、飛鳥時代

身分格差が拡大して大きな政治力や軍事力を得た豪族が出現し、荒尾市で唯一の前方後円墳である三ノ宮古墳が造営されました。小岱山一帯は工業地帯を形成して、多数の須恵器の窯が築かれたほか、砂鉄製錬業が発達しました。

熊本県荒尾市の別当塚東古墳

別当塚東古墳

荒尾市北部の丘陵に築かれた5世紀の古墳群のひとつで、ほかに西古墳や亀塚古墳などがあります。東古墳は古墳群で最大規模で高さ5メートルの円墳です。

熊本県荒尾市の別当塚東古墳の石室

別当塚東古墳の石室

別当塚東古墳は石室内部を見学できます。安山岩を積み上げた竪穴系横口式石室があり、ベンガラで装飾されています。

奈良時代、平安時代

律令体制が成立すると、市域は肥後国玉名郡に属しました。平安時代に野原荘が成立して宇佐八幡宮の神宮寺・弥靭寺領となりました。保元年間(1156~59年)に平重盛の祈願寺として賀庭寺が創建しました。

熊本県荒尾市の小岱山古窯跡群

小岱山古窯跡群

小岱山では6世紀後半から平安時代にかけて須恵器が焼かれました。江戸時代に小岱山の陶土を原料とした小代焼の窯が古小代の里公園に集められました。

熊本県荒尾市の小岱山製鉄跡群

小岱山製鉄跡群

9世紀初頭に生産が開始され、12世紀後半から13世紀初頭に最盛期を迎えました。現存する炉は半地下式竪型炉で楕円形をしています。

鎌倉時代、南北朝時代

宝治元年(1247年)の宝治合戦で功を得た小代重俊が野原荘の地頭に任ぜられ、文永8年(1271年)に小代重泰が元寇に備えるために野原荘に下向して筒ヶ嶽城などを築きました。建治2年(1275年)に小代氏の菩提寺として浄業寺が創建しました。

室町時代、安土桃山時代

小代氏は菊池氏と対立して豊後国守護の大友氏の支配下に入りました。天文23年(1554年)に菊池義武が大友義鎮に滅ぼされると、小代実忠が豊後・筑後・肥後などに広大な所領を得ました。天正6年(1578年)に大友義鎮が耳川の戦いに敗れて衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が肥後に侵攻して小代親忠は軍門に降りました。天正12年(1584年)に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで敗死したことで、小代親泰は島津氏に降りました。

江戸時代

肥後藩主の加藤清正は、現在の浦川である長溝や池黒池を築き、浦川沿いや菜切川沿いに新田を築きました。加藤家の跡に入部した細川家は、三池往還などを整備して府本は宿場町として発展しました。街道には肥後種山の石工・橋本勘五郎が石造りの眼鏡橋である岩本橋を架橋しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治時代になると殖産興業に欠かせない石炭の産地として、人家の集積が進み市街地が形成しました。明治政府は三池炭鉱を官営化し、明治35年(1902年)に万田坑が本格的に開削され、大正13年(1923年)から四ツ山坑が採炭をはじめ、炭鉱の町として商業地も形成されました。農業も盛んに行われ、明治40年(1907年)に荒尾梨の栽培を始めて全国有数の梨の産地となりました。

工業都市の形成と空襲被害

昭和16年(1941年)にアジア太平洋戦争開戦に伴い、東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所が置かれました。荒尾市域には化学工場と軍需工場が展開して新興工業都市となりますが、昭和20年(1945年)に二度にわたり空襲を受けました。

熊本県荒尾市の宮崎兄弟の生家

宮崎兄弟の生家

宮崎四兄弟は日本の近代化に大きな足跡を残しました。宮崎八郎は自由民権運動を行い、宮崎民蔵、宮崎彌蔵、宮崎滔天は中国の孫文を助けて理想の国家を夢見ました。

熊本県荒尾市の三井三池炭鉱・万田坑

三井三池炭鉱・万田坑

三井三池炭鉱の主要な竪坑の一つで、日本最大規模の2つの竪坑があります。明治期の炭坑施設として採掘から出炭までの一連の施設が残されています。