水俣市
水俣市は熊本県の最南端に位置し鹿児島県に接しています。三方は矢城山、大関山、矢筈岳等の山に囲まれ、わずかに水俣川河口に開けた平地が八代海(不知火海)に面しています。小さな農漁村に過ぎませんでしたが、明治時代以降に工場が設立され工業都市となりました。
概要
- 面積
- 163.29km2
- 人口
- 22,912人(2022年2月1日)
- 市の木
- さくら
- 市の花
- つつじ
- 地図
歴史
水俣市は、薩摩国と肥後国を結ぶ薩摩街道に位置する小さな漁村に過ぎませんでした。明治時代になり鹿児島県の金山開発で必要な石炭を運ぶ集積港として開発され、次第に工業地帯として発展していきました。昭和時代になると工場廃水を海に流したことで水俣病が引き起こされました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
水俣市の高原地帯にある石飛遺跡などから旧石器時代のナイフ形石器などが確認されています。やがて低地に移住して生活するようになりました。
南福寺貝塚
縄文時代に造営された貝塚で、出土した土器にはこれまで見られない特徴から南福寺式土器と名付けられました。
初野貝塚
弥生時代の中期から後期に水俣川沿いの台地に造営された貝塚で、免田式土器が確認されています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代も弥生時代と同じく陳内、古城、長野、初野にかけてのシラス台地上に遺跡が残されています。北園上野古墳群からは29の板石積石棺墓とその周囲から17の竪穴建物跡が見つかり、北九州と南九州の文化交流で独自の文化が発展しました。
初野古墳群
初野貝塚の隣には5世紀中期に地下式板積石室の初野古墳群が造営されました。調査された5基のうち2基は初野神社の境内に移転復元されています。
奈良時代、平安時代
律令政府が成立すると、政府は交通の要衝にあたる水俣と仁王に駅家が置かれました。治承5年(1181年)頃には水俣四郎が水俣城の前身となる砦を築きました。
鎌倉時代、南北朝時代
南北朝時代になると、八代を拠点とする名和顕興は南朝方に与して、家臣の本郷家久を水俣城の城主としました。芦北侵攻を狙う相良氏は名和氏を滅ぼし、永禄4年(1460年)に水俣城を支配下に置きました。
室町時代、安土桃山時代
弘治3年(1557年)に上村頼孝らが相良義陽に反乱を起こして水俣城に籠りました。天正9年(1581年)には島津氏が侵攻すると犬童頼安が水俣城に籠城しましたが、相良義陽は葦北郡を島津氏に割譲して降伏しました。天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐で芦北郡は豊臣秀吉の直轄領となり深水長智を代官としました。文禄2年(1593年)以降は寺沢氏から小西氏の領地となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより加藤清正の領地となりました。
水俣城井戸跡
天正9年(1581年)に島津義久は大軍で水俣城を攻めて落城しました。現在は石垣の一部と井戸跡が残されています。
江戸時代
加藤家は改易処分となると、寛永9年(1632年)に細川忠利が肥後藩主となり細川家が統治しました。水俣は薩摩藩を警戒する軍事的に重要な拠点で、浜村や陣内村が薩摩街道の宿駅として栄えたほか、番所が設けられて人や荷物が検査されました。江戸時代初期には馬刀潟新地などの干拓地が造成されて特産である水俣塩が干拓地で生産されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると薩軍が伊佐を重要拠点としたため、政府軍は水俣を拠点として久木野、石坂川、深川、鬼岳などの薩摩との境界や大関山などの山間地、市街地に迫る中尾山などで激しい戦いとなりました。西南戦争が終結すると、殖産興業を推進する明治政府は鹿児島県の金山開発で必要な石炭を運ぶため、小さな農漁村を開発して集積地としました。
水俣病
明治41年(1908年)に日本窒素肥料の工場が設立されてからは人口が急速に増加し、工業都市として発展していきました。地元の工場で作られていた製品はテレビ・冷蔵庫・洗濯機の三種の神器に役立てられましたが、メチル水銀を含んだ廃液を海に流したことで健康被害や環境汚染が現れ、昭和31年(1956年)に水俣病として公式確認されました。
陣内官軍墓地
明治10年(1877年)に伊佐市の高隈山の戦闘で戦死した東京、名古屋、大阪の各鎮台及び近衛所属の将兵の墓碑が並びます。
徳富蘇峰・徳冨蘆花生家
惣庄屋と代官を務める家柄で、徳富蘇峰は明治維新から戦後の高度経済成長期までジャーナリストとして、弟蘆花は小説家として活躍しました。
不知火湾
戦後の経済成長に工業都市となる水俣では、チッソ工場が水銀を含む有害な工場排水を海に流して公害が発生しました。