歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

玉名市

熊本県玉名市の経塚史跡公園

玉名市は熊本県の北部に位置し、有明海に面しています。市域には菊池川が流れて、下流域は肥沃な玉名平野が広がります。肥後米や果物のハウス園芸が盛んで、濃厚な豚骨スープに焦がしニンニクを乗せる玉名ラーメンが有名です。

概要

面積
152.60km2
人口
63,426人(2022年2月1日)
市の木
小岱松
市の花
肥後花しょうぶ
市の鳥
しらさぎ
地図

歴史

古くから菊池川の恵みを受けて交易が盛んな地域で、高瀬津は中国との貿易港として栄え、江戸時代には菊池川の水運の拠点として栄えました。明治10年(1877年)の西南戦争では、海陸の交通の要衝である高瀬は戦火に遭い、高瀬を抑えた政府軍が優勢となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の明確な遺構は発見されていませんが、備中遺跡や今泉遺跡などからナイフ形石器が見つかりました。縄文時代の尾田貝塚から阿高式土器などが出土し、吉丸西遺跡から円形の竪穴建物跡が35基出土しました。斉藤山貝塚からは日本最古級の鉄器が出土し、両迫間日渡遺跡からは弥生時代中期頃の水田跡が検出されました。

古墳時代、飛鳥時代

古くから大陸の影響を受け、柳町遺跡から国内最古級の文字が書かれた木製短甲などが発見されました。身分格差が拡大して大きな政治力や軍事力を得た豪族が出現しました。

熊本県玉名市の大塚古墳

大塚古墳

4世紀中頃に築造されたと考えられる墳長70メートル以上の3段築盛の前方後円墳です。埋葬施設は2基あり、1つは凝灰岩製の舟形石棺です。

熊本県玉名市の経塚古墳

経塚古墳

4世紀末に築造されたと考えられる直径45メートル、高さ7メートルの円墳です。凝灰岩製の舟形石棺は内側の全面にベンガラが塗布されています。

熊本県玉名市の小塚古墳

小塚古墳

4世紀末から5世紀初頭に築造された直径33メートルの円墳と考えられます。壺型埴輪・円筒埴輪が出土しています。

熊本県玉名市の大坊古墳

大坊古墳

6世紀前半から中頃に造営された前方後円墳で、後円部に南に開口する横穴式石室が設けられています。石室内部は赤・黒・青などの顔料で装飾されています。

熊本県玉名市の稲荷山古墳

稲荷山古墳

6世紀頃に造営された玉名最大の前方後円墳です。この一帯は繁根木遺跡群と呼ばれており、弥生時代後期の青銅鏡などが出土しています。

熊本県玉名市の石貫穴観音横穴

石貫穴観音横穴

6世紀頃に造営された横穴墓で、繁根木川右岸の丘陵西側に3基が並んで築かれ、やや離れて2基があります。1~3号墓には装飾が施されています。

熊本県玉名市の石貫ナギノ横穴群

石貫ナギノ横穴群

6世紀頃に造営された灰石と呼ばれる阿蘇溶結凝灰岩の崖面にある横穴墓です。熊本県教育委員会の調査では48基が確認されています。

熊本県玉名市の永安寺東古墳

永安寺東古墳

6世紀末から7世紀前半に築造されたと考えられる古墳です。石室内部は赤の顔料で三角文や円文の装飾が施されている装飾古墳です。

熊本県玉名市の永安寺西古墳

永安寺西古墳

6世紀末から7世紀前半に築造されたと考えられる古墳です。古墳の上部が失われ、内部の装飾は色が失われて外郭線だけが残されています。

奈良時代、平安時代

飛鳥時代から奈良時代にかけて律令体制が整いました。立願寺一帯には玉名郡衙が置かれ、日置氏が郡司を務めて支配しました。玉名郡衙には掘立柱建物や礎石建物跡が確認されており、税として徴収された米が保管されていたと考えられています。平安後期になると日置氏は衰退していきました。

玉名温泉の疋野長者伝説

およそ1300年前、都の高貴な姫の夢枕に観音様が現れ、玉杵名の炭焼き小五郎を夫にするように告げられました。姫は小五郎に出会い米を買うために必要な金を与えますが、小五郎は金の価値がわからずに白鷺に投げつけました。傷ついた白鷺は湯けむりがのぼる泉で傷を癒し、その様子を目撃したことで玉名温泉が発見されました。小五郎は姫と結ばれて小岱山麓で製鉄業で財を成して疋野長者と呼ばれました。やがて温泉は忘れ去られますが、江戸時代に立願寺村の庄屋の夢枕に疋野長者が現れて温泉が掘り起こされ、大正時代まで立願寺温泉と呼ばれました。

熊本県玉名市の六反製鉄跡

六反製鉄跡

8世紀中頃から後期の半地下式竪型炉が奇跡的に発見されました。熊本県内にある製鉄遺跡の半数は小岱山一帯に所在し、九州最大規模の製鉄遺跡群を形成していました。

熊本県玉名市の青木磨崖梵字群

青木磨崖梵字群

唐の僧侶・善無畏三蔵法師が梵字を刻んだ伝承がありますが、その製作時期は平安時代終わりや南北朝時代など諸説あります。

鎌倉時代、南北朝時代

筥崎宮領の大野別符、安楽寺領玉名荘、仁和寺領玉名荘、伊倉別符などの荘園がありました。大野別符を根拠地とした大野氏は浄光寺を菩提寺として大きな勢力を誇りました。鎌倉時代には全国的に港湾が整備され、丹倍津と高瀬津の2つが中国との貿易港として栄えました。

室町時代、安土桃山時代

宇佐八幡宮の宇佐氏と伊倉氏は丹倍津を開発し、菊池氏や大野氏は高瀬津を開発していきました。菊池氏が滅んで阿蘇氏も衰退して大友氏や龍造寺氏、島津氏の支配を受けますが、丹倍津や高瀬津は庇護を受けてルイス・フロイスら宣教師が立ち寄り、加藤清正が肥後国に入国してからは伊倉津に唐人町がつくられて朱印貿易が行われました。

江戸時代

高瀬津は菊池川の水運の拠点として、現在の永徳寺に船着場や米蔵が造営されました。高瀬は最盛期を迎え、多くの商家や倉が並び、熊本や八代、川尻、高橋とともに肥後五ヶ町として栄えました。寛永16年(1634年)に川口番所が置かれ、のち晒番所として鉄砲や槍などが配備されました。

熊本県玉名市の熊本藩高瀬米蔵跡

熊本藩高瀬米蔵跡

熊本藩高瀬米蔵跡は、高瀬御蔵跡、高瀬船着場跡、晒船着場跡で構成されています。菊池川を利用して集積した年貢米を検査・保管し、大坂堂島へ搬出しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治10年(1877年)の西南戦争では、海陸の交通の要衝である高瀬は戦火に遭いました。高瀬の戦いは西郷隆盛の弟・西郷小兵衛が戦死し、息子の西郷菊次郎が足に負傷する激戦となりました。明治24年(1891年)に九州鉄道が開通して高瀬の舟運は衰退していきました。アジア太平洋戦争で大浜飛行場が特攻隊の中継基地となり、玉名市域も空襲被害を受けました。

熊本県玉名市の高瀬官軍墓地跡

高瀬官軍墓地跡

墓壙が確認され人骨と共に銃弾などが発見されました。395名が埋葬されていましたが、墓標が風化しやすい砂岩のため合祀塔に祀られました。