歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

菊池市

熊本県菊池市の菊池渓谷

菊池市は熊本県北東部に位置し、北部の八方ヶ岳から東部の阿蘇外輪山の鞍岳まで山岳が連なり、菊池渓谷を形成する菊池川が市街地を貫流して菊池平野を中心に肥沃な土地を形成しています。

概要

面積
276.85km2
人口
45,751人(2022年2月1日)
市の木
サクラ
市の花
キク
市の鳥
ウグイス
地図

歴史

菊池は深川の河岸段丘の下から湧水する菊之池から呼ばれるようになりました。平安時代に太宰府天満宮領の荘官として菊池氏が下向し、元寇や南北朝の争乱で活躍したことから肥後国守護となりました。やがて衰退して島津氏が支配下に置きましたが、豊臣秀吉の九州征伐で加藤家が統治するようになり、加藤家改易後から細川家が支配しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

弥生時代後期には古閑原集落、うてな集落、小野崎集落が営まれています。

熊本県菊池市

菊池市街

田園風景が広がる菊池平野では松島遺跡などから旧石器時代からの人の営みが残され、縄文時代後期には三万田地域やワクド石集落などが営ました。

熊本県菊池市の藤尾支石墓群

藤尾支石墓群

弥生時代中期後半の支石墓9基、積石墓4基、単独の甕棺墓2基、石積列が発掘されました。

古墳時代、飛鳥時代

菊池川沿岸に古墳が造営されるようになり、古墳時代後期になると菊池盆地周辺の台地や丘陵地の崖地に築地百穴を始めとする横穴墓群が形成しています。

熊本県菊池市の長明寺坂古墳群

長明寺坂古墳群

菊池川上流域の菊池平野を北に見下ろす丘陵地に造営された5世紀後半の円墳で、横穴式石室には赤色顔料が塗られています。

熊本県菊池市の袈裟尾高塚古墳

袈裟尾高塚古墳

迫間川中流の右岸の標高138メートルの丘陵地に造営された6世紀末の円墳で、横穴式石室には線刻や赤色顔料による同心円紋などが描かれています。

熊本県菊池市の鞠智城跡

鞠智城跡

天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和王権が日本の防衛のために築いた城で大宰府の食料や物資の補給基地と考えられています。

奈良時代、平安時代

平安時代前期に菊池郡の郡家が置かれ荘園が整備されていきました。菊池川沿岸に玉名荘、赤星荘、合志荘など太宰府天満宮領が成立し、太宰府官人藤原蔵規を始祖とする菊池氏や国造や神主に系譜がある阿蘇氏が武士団を形成しました。延久2年(1070年)に菊池に下向した菊池則隆は平家に与していましたが、平家討伐の勅令で源頼朝が挙兵すると源氏に与するようになります。

鎌倉時代、南北朝時代

2度にわたる蒙古襲来で菊池武房は竹崎季長らとともに活躍しました。元寇が終結すると、鎌倉幕府は鎮西探題を設置して執権北条氏が肥後国の統治に進出するようになり、これに反発して元弘3年(1333年)に菊池武時が鎮西探題を襲撃して南北朝時代の争乱の素地を醸成していきました。

熊本県菊池市の菊池氏遺跡(菊之池城)

菊池氏遺跡(菊之池城)

菊池氏が最初の拠点とした場所で、有力豪族として統治を進めました。

熊本県菊池市の鳳儀山聖護寺

鳳儀山聖護寺

菊池武時は大智禅師を招いて延元元年(1338年)に鳳儀山聖護寺を創建して菊池一族の精神の拠り所としました。

熊本県菊池市の菊池氏遺跡(北宮阿蘇神社)

菊池氏遺跡(北宮阿蘇神社)

永和4年(1378年)に菊池武朝が阿蘇北宮を勧請して氏神としました。

熊本県菊池市の菊池武光像

菊池武光

後醍醐天皇の皇子懐良親王を迎えて南朝方の中心として活動し、元中9年/明徳3年(1392年)に九州探題今川了俊と和議して肥後国守護職に任ぜられました。

熊本県菊池市の正観寺の礎石群

正観寺の礎石群

菊池武光が建立して自身の墓も置かれます。

室町時代、安土桃山時代

菊池氏は現在の菊池神社である守山城に拠点を移して隈府とし、菊池十八外城を置いて守山城を守りました。菊池重朝は家臣隈部忠直と相談して菊池の文教奨励のため、文明4年(1472)に孔子堂を創建しました。孔子堂では文明9年(1477)に京都南禅寺の高僧桂庵禅師を招いて釈奠の礼が行われています。

豊後大友氏の影響下

永正元年(1504年)に菊池能運が死去して菊池宗家が断絶すると、阿蘇家や詫間家から養子を迎えるも長くは続かず、大友義鑑の弟大友重治が菊池義武として守護職を継承しました。菊池義武は大友家からの独立を図りますが、天文20年(1551年)に大友宗麟から攻められて大友氏の統治下に置かれました。やがて肥前国龍造寺氏や薩摩国島津氏の台頭により肥後国の統治体制が不安定となり、天正14年(1586年)に薩摩国守護島津義久の統治下となりました。翌年の豊臣秀吉による九州討伐で島津氏は降伏すると佐々成政が肥後国に入りますが、肥後国人一揆を引き起こして失脚したため加藤清正が肥後北部を統治するようになりました。

熊本県菊池市の菊池神社

菊池神社

菊池氏は現在の菊池神社に守山城を築いて居城を移しました。守山城は隈府と呼ばれて菊池氏の中心となりました。

江戸時代

寛永9年(1632年)に加藤清正の子加藤忠弘が改易されると、細川忠利が入国して熊本藩主となりました。文教が発展して寛延元年(1748年)に渋江紫陽が私塾集玄亭を創設し、寛政4年(1794年)に渋江松石が星聚堂、嘉永元年(1848年)に田島天満宮神主伊牟田泉が伊牟田塾を創設するなど13カ所の私塾がありました。また菊池川の支流には多くの石橋が架橋され、文政6年(1823年)旧永山橋が架橋され、文政12年(1829年)に迫間橋が架橋されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治10年(1877年)の西南戦争で薩軍は西覚寺に本陣を置き、平真城村、南田島で激戦となりました。昭和16年(1941年)に造営された菊池飛行場は、昭和20年(1945年)の空襲でほぼ全滅しました。