歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

宇土市

熊本県宇土市街

宇土市は、熊本県のほぼ中央部の広大な熊本平野の南部に位置しています。宇土半島の丘陵が南に連なり、北西には有明海、北には緑川河口の肥沃な土地が広がります。交通の重要な拠点で長く争いが続きましたが、現在では熊本県の商工業の拠点のひとつとなりました。

概要

面積
74.30km2
人口
35,779人(2022年2月1日)
市の木
きんもくせい
市の花
あじさい
市の鳥
メジロ
地図

歴史

旧石器時代から人の営みがある宇城市は多くの古墳が造営され、舟の線刻が描かれた装飾古墳が特徴的です。やがて武士団が宇土氏を名乗り統治を行い、宇土氏滅亡後に名和氏が統治するようになりました。戦国時代末期から小西氏、加藤氏が統治して細川氏が明治時代まで統治しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

宇土市は旧石器時代後期の田平遺跡に人の営みの痕跡が残されています。縄文時代前期には宇土半島山塊の裾と雁回山の山裾に轟貝塚や曽畑貝塚が造営されました。弥生時代になると北九州カメ棺墓が造営され、これが北九州カメ棺文化圏の南限となりました。

熊本県宇土市の宇土半島の御輿来海岸及びその周辺の砂紋

宇土半島の御輿来海岸及びその周辺の砂紋

潮がひくと現れる風と波で描かれた砂紋で、景行天皇が九州遠征であまりの美しさに御輿を停めて見られたという伝説から名付けられました。

熊本県宇土市の轟貝塚

轟貝塚

縄文時代早期末から後期中葉にかけての貝塚を伴う集落遺跡で、土器や人骨など多くの遺物が出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代になると巨大な墳丘がある前方後円墳などが造営されるようになりました。

熊本県宇土市の楢崎古墳

楢崎古墳

古墳時代中期の5世紀後半に造営された古墳で、箱形石棺が東西方向に並んで埋葬されています。

熊本県宇土市の仮又古墳

仮又古墳

古墳時代終末期に造営された横穴式石室がある装飾古墳です。舟の線刻は宇土半島に集中して見られ、当時の海運技術や舟の構造を知る手がかりとなりました。

奈良時代、平安時代

治承3年(1048年)に紀氏の一族が宇土氏を名乗る武士団を形成し、古墳が造営された西岡台の丘陵に宇土古城を築いて居城としました。

熊本県宇土市の宇土古城跡

宇土古城跡

千畳敷と呼ばれる郭と三城と呼ばれる郭の2つが並ぶ構造でした。千畳敷には掘立柱建物が多数置かれ、北側から全国で初めて未完成の空堀が見つかりました。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉時代末期に菊池氏の一族が同じく宇土氏を名乗り宇土城の城主となりました。正平3年(1348年)に後醍醐天皇の皇子懐良親王が宇土津に来着して宇土氏は南朝方として活動しますが、元中7年(1390年)に今川了俊に攻められ宇土城が落城しました。

室町時代、安土桃山時代

文亀元年(1501年)に宇土為光が菊池能運の軍を破り肥後国守護を奪いましたが、文亀3年(1503年)に菊池軍に攻められて宇土氏は滅亡しました。宇土為光側の名和顕忠は八代を中心に勢力を伸ばしていましたが、人吉の相良氏に攻められて空白地帯の宇土領に逃れて宇土城を拠点としました。

小西行長

名和顕孝は娘を大矢野城主大矢野種基と婚姻させて川尻などを領有するなど勢力を拡大しましたが、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定で宇土城を開城しました。名和氏に代り佐々成政が入りますが、隈部親永ら国衆は肥後国人一揆を起こして抵抗し、これを契機に佐々成政は改易されました。肥後国は北部に加藤清正、宇土市を含む南部に小西行長が入り、小西行長は天正16年(1588年)に新たに宇土城を築いて宇土古城は廃城となりました。

熊本県宇土市の小西行長像

小西行長

肥後国南部を支配したキリシタン大名で、関ヶ原の合戦で西軍に与したため六条河原で斬首され、肥後国の全域が加藤家の領地になりました。

熊本県宇土市の宇土城跡

宇土城跡

小西行長が新たに築城して居城とし、小西家が改易されたあとも加藤家が大改修しましたが、加藤清正死後に廃城となり島原・天草一揆平定後に徹底的に破壊されました。

江戸時代

熊本藩加藤家が改易となると細川家が肥後藩主となり、正保3年(1646年)に細川行孝を藩主とする宇土支藩が置かれました。細川行孝は寛文4年(1664年)に轟上水道を造営して城下町の水質を改善しました。

熊本県宇土市の天草四郎ゆかりの地

天草四郎ゆかりの地

小西行長の遺臣益田甚兵衛の子・天草四郎時貞が住んでいたと伝えられます。寛永14年(1637年)に起きた島原・天草一揆で天草四郎の母姉は捕らえられました。

熊本県宇土市の網田焼窯跡

網田焼窯跡

寛政5年(1793年)に天草の山道喜右衛門らが開窯しました。寛政10年(1798年)には藩窯となり栄えましたが、次第に衰退して昭和のはじめに廃窯となりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)に熊本藩が熊本県になると宇土郡は熊本県に属しましたが、同年に熊本県と八代県に分かれると八代県に含まれ、明治6年(1873年)にのちの熊本県となる白川県に含まれました。太平洋戦争の戦況が悪化した昭和20年(1945年)に空襲を受けました。戦後の昭和33年(1958年)に宇土市となりました。