上天草市

上天草市は、熊本県の西部、有明海と八代海が接する天草地域の玄関口に位置し、大矢野島などの島で構成されています。急峻な山ひだが海岸線まで迫り全体的に平坦地が少ない地形ですが、大矢野島は比較的傾斜が緩やかな丘陵地が多く酪農が行われています。
概要
- 面積
- 126.94km2
- 人口
- 23,537人(2021年11月1日)
- 市の木
- マツ
- 市の花
- サクラ
- 市の鳥
- メジロ
- 地図
歴史
海人が支配したと見られている上天草市は、天草五人衆の大矢野氏や栖本氏が治めるようになりました。肥後国守護菊池氏のほか相良氏や名和氏の影響を受けながら存続しましたが、宇土城普請で国人衆一揆で服属しました。江戸時代の天草・島原一揆では天草四郎時貞が出陣を決意しています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
特に記録は見つけられませんでした。
古墳時代、飛鳥時代
天草は有明海と八代海の接点に位置する地勢から海の交通の要として、古くから海人が支配したとされて県内有数の装飾古墳が散在しています。

長砂連古墳
5世紀前半に造営された古墳で、石障系横穴式石室には直弧文と円文の装飾が施されており、大和王権との関係が示唆されています。

大戸鼻古墳群
標高30mの大戸鼻丘陵地に造営された6世紀中期の5基からなる古墳群で、石室にはコンパスで描かれた円文が刻印され、全面に赤色の顔料が塗られています。
奈良時代、平安時代
特に記録は見つけられませんでした。
鎌倉時代、南北朝時代
大蔵氏から派生した大矢野氏は、満潮時に海に面する海城の大矢野城を居城として統治しました。元寇では大矢野十郎種保と大矢野三郎種村が博多湾に参陣して活躍しました。竹崎季長の蒙古襲来絵詞にも大矢野兄弟の船団が描かれています。
室町時代、安土桃山時代
天草を治めていた栖本氏、大矢野氏、天草氏、志岐氏、上津浦氏が治めて天草五人衆と呼ばれ、大矢野と松島は大矢野氏、龍ヶ岳と姫戸は菊池氏の庶流である栖本氏に属するようになりました。天草五人衆は、肥後国守護菊池氏のほか相良氏や名和氏の影響を受けながら存続しました。
天正の天草合戦
天草五人衆は豊臣秀吉の九州平定の際に臣従し、肥後南部の領主に任じられた小西行長の元で所領を安堵されました。小西行長は宇土城の城普請を要求したことで、志岐麟泉を筆頭に天草五人衆は拒否し、天正17年(1589年)に天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高ら天草五人衆が反乱を起こしました。領主の小西行長が助勢に来た加藤清正と共に攻め込み、五人衆は滅亡あるいは服属することになりました。

高舞登山
標高117メートルの景勝地で、戦国時代に地元の武将が山頂で舞いを楽しんだという伝承から名付けられました。

龍ヶ岳
標高470メートルから不知火海から阿蘇や雲仙までも見渡せる景勝地で、国指定名勝に登録されています。
江戸時代
天草四郎時貞は、寛永14年(1637年)に島原・天草一揆の総大将となると、慶長2年(1597年)から使用されていない大矢野城に一揆勢が立て籠もろうとしましたが、島原の原城を本陣としたため原城へ移動しました。島原・天草一揆が鎮圧されると幕府は寛永17年(1640年)に天草全域を直轄天領として旗本の鈴木重成を天草代官として派遣しました。鈴木重成は全島に1町10組(86村)を置き、富岡代官所でこれらを支配し、各組に大庄屋、各村に庄屋、年寄、百姓代を設けました。

千巌山
キリシタンの弾圧と農民への過度な取立てに対抗するため、天草四郎時貞は千巌山で杓子でお酒を注いで宴を開いて出陣を祝いました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)、天草は八代県に編入され、明治6年(1873年)に熊本県の前身となる白川県の管轄になりました。平成16年(2004年)に天草郡大矢野町、松島町、姫戸町、龍ヶ岳町が合併して上天草市が誕生しました。