宇城市

宇城市は平成17年(2005年)に旧宇土郡三角町、不知火町、下益城郡松橋町、小川町、豊野町の5町が合併して誕生しました。熊本県の中央部に位置し、八代海北部沿岸から宇土半島南側を市域としています。地形や自然に恵まれて不知火海の文化と田園風景が広がるデコポンなどの産地です。
概要
- 面積
- 188.61km2
- 人口
- 56,829人(2021年11月1日)
- 市の木
- サクラ
- 市の花
- コスモス
- 市の鳥
- ウグイス
- 地図
歴史
熊襲を制圧した景行天皇は、船で移動しているときに現れた正体不明の火の光で現在の松橋町豊福に無事にたどり着くことができました。この火の光からこの地を火の国と呼び、海を不知火と名付けました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
宇城市には縄文時代の痕跡が残されています。縄文時代前期から弥生時代にかけて造営された宮島貝塚からは轟式土器が確認されています。縄文時代中期から弥生時代には大坪貝塚が造営され、縄文時代後期前半からは七ツ江カキワラ貝塚が造営されています。
古墳時代、飛鳥時代
球磨の熊津彦兄弟討伐を終えた景行天皇は、芦北日奈久のあたりから軍船に乗り不知火海を北上して豊村(松橋町豊福)に着岸しました。暗闇に包まれましたが火の光が現れて船団が無事にたどり着き、景行天皇はこの地を火の国と呼び、現れた正体不明の火の光から不知火と名付けられました。大和王権の影響が及ぶと装飾古墳も多く造営され、6世紀末には朱斗叶松須恵窯跡で須恵器が製作されました。

小田良古墳
5世紀に宇土半島の北側海岸に面した丘陵地帯に造営された円墳で、石室内に文様が描かれています。

国越古墳
6世紀半ばに宇土半島の北側海岸に面した丘陵地帯に造営された前方後円墳で亀崎古墳群の主要古墳の一つになります。

桂原古墳
宇土半島南側の丘陵中腹にある6世紀後半に造営された装飾古墳で、玄室には顔料による彩色と線刻による装飾があり特に船の線刻文様が特徴的です。

宇賀岳古墳
古墳時代後期の6世紀後半に造営された鬼の岩屋と呼ばれている横穴式石室の古墳です。横穴式石室には装飾が施されています。
奈良時代、平安時代
奈良時代末期の8世紀後半に豊野町下郷に所在していた奘善は浄水寺を創建し、奈良時代末期から平安時代には松橋町古保山に古保山霊運寺が創建しました。平安時代になると、三十六歌仙の一人である能因法師が詩を詠み、その石碑が残されています。
鎌倉時代、南北朝時代
後醍醐天皇の皇子懐良親王は、南朝の征西将軍として九州に派遣されました。文中3年(1374年)には御手洗水源群の清水を手ですくい飲んだと言われています。
室町時代、安土桃山時代
建武元年(1334年)に名和長年の子である名和義高が領するようになり、代官として内河彦三郎義真が豊福城に入りました。芦北の領有を巡り人吉の相良氏と争うようになると、長享元年(1487年)に相良為継が豊福城を攻め、守将竹崎蕃馬允安清父子が討たれて稲留刑部大輔が入るなど、豊福城は相良氏と名和氏で激しく争いました。薩摩国の島津氏は天正6年(1578年)に八代や豊福を支配していた相良氏を攻め、さらに宇土城の名和顕孝も攻めて支配下としました。
相良義陽と響ヶ原合戦
天正9年(1581年)島津義久から阿蘇氏攻めを命じられた人吉領主相良義陽は、8千の軍勢を率いて八代から阿蘇氏の村山丹後守が城代として在城する豊田城を攻めました。豊田城は城番家老の湛淵甚吉がよく城を守りましたが、赤峯尾城や甲佐の豊内城は攻め落とされました。相良義陽は娑婆神峠に陣を構え宴を開きましたが、御船城主の甲斐宗運が急襲して相良義陽が討ち取られました。
江戸時代
加藤清正により熊本藩が成立すると、慶長13年(1608年)に新地塘が築堤されて小川町新田新地の干拓を進めました。やがて加藤家から細川家に統治が引き継がれますが、干拓事業は継続されて天保10年(1839年)に松橋新開、嘉永6年(1853年)に砂川堤が造営されて砂川新開干拓が行われました。安永2年(1773年)には宇土藩5代藩主細川興文が蕉夢庵跡を造営して隠居しました。水田が広がる小川地区には安政5年(1858年)には地蔵菩薩のお告げにより出水地蔵水源が発見されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
熊本県は良港に恵まれていないため、熊本市の坪井川河口の百貫石港を主要港としていました。県令富岡敬明はオランダ人水理工師ローエンホルスト・ムルドルに依頼して三角西港が開港しました。明治32年(1899年)に九州鉄道三角線が開通しますが、地形の問題で三角西港まで開通しませんでした。これにより際崎に東港が開設されて三角西港は次第に衰退して当時のまま残されました。太平洋戦争では昭和20年(1945年)に空襲被害を受けています。

三角西港
明治20年(1887年)に開港した明治の三大築港のひとつで、ムルドル設計により3年の歳月をかけて築港されました。

龍驤館
天応頌徳記念館として宇土郡の公会堂、産物に陳列や教育勧業の振興として、大正7年(1918年)に建造されました。