天草市

天草市は熊本県南西部に位置し、天草上島と天草下島および御所浦島などで構成する天草諸島の中心部に位置しています。ほとんどが山林で占められており急峻で平野部が少なく、河川沿いの平地部や海岸線の河口部に市街地や農地が展開しています。
概要
- 面積
- 683.86km2
- 人口
- 73,808人(2022年2月1日)
- 市の木
- あこうの木
- 市の花
- はまぼう
- 市の鳥
- かもめ
- 市の魚
- タイ
- 地図
歴史
平安時代に大蔵氏が開発領主となる天草下島は、鎌倉時代に地頭として派遣された志岐氏など天草五人衆の間で領土争いが起こりました。天草五人衆は小西行長の宇土城普請に反発して攻められ領地を失いました。中国大陸に近い土地柄として江戸時代には海防の拠点となり、隠れキリシタンが活動した土地でもあります。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
周囲が海に囲まれり景勝地が広がる天草下島は霊場ともなりました。老岳古代祭祀遺跡では縄文時代後期から平安時代まで祭祀が行われる祈りの場となり、日本神道理念の最も古い姿で老岳信仰の祖形と考えられています。

妙見浦
山が沈水して波の侵食で山の斜面に直接作用したことで海食崖や海食洞が生まれた国指定名勝および天然記念物のリアス式海岸です。

六郎次山
下島大観山とも呼ばれる標高405メートルの山で、深海湾の入江や不知火海に浮かぶ島を眺められる国指定名勝です。

大矢遺跡
広瀬川河口左岸に造営された縄文時代前期から後期の遺跡で、朝鮮半島由来のオサンリ型結合式釣針の石製軸部などが出土し、縄文土器には籾がらの跡がありました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代前期には、下浦町先尾串石棺墓群や深海町月の浦古墳など八代海沿岸の各地に石棺墓が造営されました。倉岳町棚底湾に面した丘陵にある宮崎石棺墓群は、3~4世紀ごろに構築された中九州南部の代表的な石棺墓群となります。古墳時代後期になると、横穴式石室がある円墳が造営されるようになりました。6世紀後半~7世紀前半の鬼塚古墳は、羊角湾地域を治めた首長の墓と考えられています。
奈良時代、平安時代
天慶4年(941年)に弘法大師の法孫である妙覚法印は、染岳観音院を開基したことで染岳の霊場となりました。御所浦には古代製鉄跡地である嵐口鞴製鉄遺跡があり、鉄滓(鉄くず)とフイゴ羽口3個が出土しています。
鎌倉時代、南北朝時代
平安時代から鎌倉時代にかけて大蔵右馬太郎種有が天草諸島の下島を開発して領主となりました。建暦2年(1212年)に兵藤左衛門尉光弘が志岐姓を称して天草六ヶ浦の地頭となり、両者は領土を巡り争うようになりました。中国元が文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)に襲来で戦功が認められた大蔵氏は天草氏を称して天草領主として成長していきます。
室町時代、安土桃山時代
天正2年(1505年)に天草氏は本砥(本渡)を志岐氏に島子を上津浦氏に譲渡しましたが、享禄3年(1530年)に天草氏が志岐氏を破り本渡を取り戻しました。天文元年(1532年)に天草氏、栖本氏、大矢野氏、志岐氏、長島氏が連合して上津浦城を攻めますが、相良氏が上津浦氏を援助しています。天文13年(1544年)に何らかの理由で栖本氏が棚底城を占拠したため、棚底城を巡り上津浦氏と抗争となり、相良氏の仲介で永禄3年(1560年)に棚底城は栖本氏から上津浦氏に譲られています。
天草合戦
天正7年(1579年)に天草五人衆は島津氏へ帰順しますが、豊臣秀吉の九州征伐で所領を安堵されました。新たな領主となる小西行長の宇土城普請に天草五人衆は反発したため、天正17年(1573年)の天草合戦で志岐氏と天草氏は滅亡し、栖本氏、上津浦氏、大矢野氏は戦わずして小西行長に降伏しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで小西行長が斬首されると、天草は唐津藩主寺沢広高の飛び地となりました。

棚底城跡
八代方面に進出する重要な拠点として天草五人衆による争奪戦が行われました。城は8つの曲輪で守られていました。

久玉城跡
天草氏の一族である久玉氏が築城して統治していましたが、永禄12年(1569年)頃に天草五人衆の天草氏の内輪揉めで天草氏が所有しするようになりました。
江戸時代
寛永18年(1641年)、天草代官鈴木重成は異国船見張りと沿岸警備のため、富岡、大江、魚貫崎の3カ村に遠見番所を設置しました。荒尾岳に設けられた大江には烽火場を設けて、対岸の椛島番所に呼応して防海監視の任に当たりました。万治3年(1660年)には富岡附遠見見張所が増設され、寛政11年(1799年)には牛深に湊番所を置いて船舶の監視を強化しています。高浜村庄屋である上田家第6代伝五右衛門は、肥前長与の陶工である山道喜右衛門を招いて宝暦12年(1762年)に高浜焼窯を開窯しました。古江村の庄屋永田隆三郎は、弘化4年(1847年)に1万5千余人を動員して弘化天草大一揆を引き起こしています。

﨑津教会
寛永14年(1638年)から厳重なキリシタン禁制で踏み絵が行われた跡地にフランス人宣教師ハルプは海の天主堂とも呼ばれる教会を昭和9年(1934年)に建てました。

高浜焼窯跡及び灰原
高浜村東方の山中から産出される良質の天草陶石を用いて明治32年(1899年)まで磁器を生産し、6代目および7代目源太夫宜珍にかけて最盛期を迎えました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治30年(1897年)に天草炭業株式会社が採炭のため下須島西岸の海を隔た烏帽子瀬に海底炭鉱である烏帽子坑が構築されました。平成18年(2006年)に本渡市、牛深市、天草郡有明町、御所浦町、倉岳町、栖本町、新和町、五和町、天草町、河浦町が合併して天草市が発足しました。