合志市

合志市は熊本県のほぼ中央に位置し、熊本市の北東に位置します。全体的に緩やかな台地上で大きな河川や高い山地がありません。北部地域は阿蘇の火山灰が降り積んだ黒ボクと呼ばれる火山灰性腐植土に覆われて広大な農地を形成し、県内有数の穀倉地帯となりました。
概要
- 面積
- 53.19km2
- 人口
- 62,562人(2022年2月1日)
- 市の木
- クヌギ
- 市の花
- カスミソウ
- 地図
歴史
鎌倉幕府から合志郡の地頭職に任じられた中原師員は、竹迫城を築城して統治を行いました。交通の要衝である合志郡は竹迫城を中心に繁栄し、江戸時代には細川氏の手永制度で竹迫手永の中心となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代後期に二子山石器製作遺跡で打製石器が製作され、御手洗遺跡から御手洗式土器が出土し、桑鶴遺跡から御領式土器や三万田式土器が出土しています。弥生時代には陣ノ内遺跡や木瀬遺跡から環濠が見つかり、永田支石墓が営まれました。

二子山石器製作遺跡
縄文時代後期から晩期にかけての打製石斧の製作所跡です。作られた石器は主に畑を耕すなどの農耕に使われたと考えられ、半径15キロの範囲の遺跡から出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
塩浸川や上生川、合志川流域には多くの古墳が築造されました。5世紀頃に大小9基の円墳からなる黒松古墳群が造営され、1号墳のヌレ観音古墳は熊本県で最大級の円墳で西南戦争時には砲台が築かれたと言われます。同時期に造営された合生にある石立石棺からは、少女の人骨と津麻櫛が見つかったことから、地元では姫塚と呼ばれています。古墳時代後期の6世紀頃には富岡宮本横穴群や荻迫横穴群が造営されました。
奈良時代、平安時代
持統天皇10年(696年)に肥後国皮石郡の壬生諸石が追大弐の位を授かりました。養老7年(723年)に肥後国恰志郡が調税として綿を百屯献上した記録があります。天平15年(743年)に建部君足國が合志郡井出原の禅房で大般若経を書写しました。久安4年(1148年)に太宰府の荘園となりました。
合志の由来
合志郡は古くは火の道の尻の国に属し火の尻邦小石川郡と称しましたが、のちに加波志に改められました。成務天皇5年(135年)の地名改称で皮石に改められ、和銅6年(713年)に元明天皇の好字好音の詔で合志と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代、南北朝時代
源頼朝から合志郡の地頭職に任じられた中原師員は、竹迫城を築城して名を竹迫輝種と改めました。鎌倉幕府が滅びて南北朝時代に入ると、延元2年/建武4年(1337年)に佐々木長綱が比叡山領奉行となり真木に館を築き、名を合志四郎入道宗真と改めました。合志氏は北朝方となり、南朝方の菊池氏から攻められ、正平15年(1360年)に合志定実は菊池武光に敗れて菊池氏に降りました。
竹迫五山跡
肥後国誌に竹迫五山の記述があります。竹迫五山とは長福寺跡、国泰寺跡、金龍寺跡、清壽院跡、金福寺跡を指します。国泰寺跡は竹迫氏の館跡の一角にあり、竹迫氏の菩提寺と考えられています。また、清壽院跡は合志氏の菩提寺と伝えられています。

竹迫城跡公園
中原師員(竹迫輝種)が築城した城で、合志郡の統治の拠点となりました。天正13年(1585年)の島津氏との戦いで落城したと伝えられています。
室町時代、安土桃山時代
天正7年(1579年)に合志親為は肥前勢に敗れて龍造寺隆信に降りますが、翌年の島津氏の侵攻で戦死しました。天正13年(1585年)には再び島津氏が侵攻し、合志隆重が島津氏配下の新納久饒や川上忠堅と戦い敗れました。豊臣秀吉の九州征伐で佐々成政が肥後国の領主となりますが、天正15年(1587年)に肥後国衆一揆を招いて切腹し、翌年に加藤清正が肥後国北半分を与えられました。加藤清正は関ヶ原の戦いの功で肥後一国を領有し、堀川往還や椎持往還を整備しました。
江戸時代
寛永9年(1632年)に加藤忠広が改易され、細川忠利が肥後国に入りました。細川忠利は惣庄屋を地域の実質的な統括者に任命する手永制度を採用して統治しました。合志市のほとんどは竹迫手永に属しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治25年(1892年)に私塾合志義塾が開校し、昭和25年(1950年)まで農家の子弟が学びました。明治29年(1896年)に合志郡と菊池郡が合併して菊池郡になりました。昭和13年(1938年)に開所した黒石原の航空機乗員養成所は、昭和19年(1944年)に大刀洗陸軍飛行学校石原分教場として特攻隊の中継基地となりました。平成18年(2006年)に合志町と西合志町が合併して合志市が誕生しました。