下益城郡

下益城郡は熊本県のほぼ中央部に位置する自然豊かな地域です。山地丘陵部が多く7割以上を森林が占めます。地や農地は少なく、農地は大部分が丘陵地や傾斜地にあります。日本一の石段や国の重要文化財である霊台橋などがある石橋と山と湖の里です。
概要
- 面積
- 144km2
- 人口
- 9,005人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 美里町
- 地図
歴史
江戸時代の手永制度で中山手永や砥用手永が置かれました。丘陵が多い地帯のため、棚田をつくり作物が栽培されました。岩野用水などの用水路が整備され、棚田は水田に開墾されました。八代の種山石工の協力を得て、石橋が多数建造されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
弥生時代に緑川沿いの勢井遺跡や馬場A遺跡に集落が形成し、農耕が営まれていました。
古墳時代、飛鳥時代
緑川沿いに四十八塚古墳群が造営され、内部に円形の紋様が施された装飾古墳もあります。下草野の丘陵には下草野A遺跡が確認されています。
奈良時代、平安時代
美里町一帯は阿蘇大宮司領や甲佐大明神の社領となりました。弘仁2年(810年)頃に福城寺が再興され、平安時代と鎌倉時代作とされる仏像が保管されています。
鎌倉時代、南北朝時代
特に記録は見つけられませんでした。
室町時代、安土桃山時代
元亀2年(1571年)に阿蘇氏の老臣篠原丹後守が城を移して一時的に領主となりましたが、天正13年(1585年)に島津氏に攻められて堅志田城が落城しました。九州征伐で佐々成政が肥後国を与えられますが、天正15年(1587年)に肥後国衆一揆が起こり、小西行長の領地となりました。

堅志田城跡
大永3年(1523年)までに築かれた阿蘇氏の山城です。天正13年(1585年)の島津氏の攻撃により落城しました。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで小西行長が刑死すると、加藤清正が肥後一国を領有しました。寛永9年(1632年)に加藤忠広が改易され細川忠利が肥後国に入り、惣庄屋が地域を支配する手永制度を進め、地域には中山手永や砥用手永が置かれました。文政9年(1826年)に用水路が完成して水田へ開墾された夏川棚田が作られ、弘化2年(1845年)に中山手永により岩野用水が建設されました。

二俣橋
文政12年(1829年)に中山手永の惣庄屋・小山喜十郎が築造しました。全国的に珍しい直角に交わる兄弟橋で、二俣福良渡は翌年に架橋されました。

霊台橋
弘化4年(1829年)に砥用手永の惣庄屋・篠原善兵衛が計画して架橋されました。江戸時代の石造単一アーチ橋として日本一の大きさを誇ります。
明治時代、大正時代、昭和時代
大正元年(1915年)に熊延鉄道が設立して、昭和7年(1932年)に現在の美里町まで建設が進みましたが、昭和39年(1964年)に廃線となりました。熊延鉄道の遺構である八角トンネルはSNS映えスポットとして人気を集めています。昭和63年(1988年)に完成した釈迦院御坂遊歩道は3333段を有し、日本一の石段として知られます。