歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

玉名郡

熊本県玉名郡の中岳展望公園

玉名郡は熊本県北部に位置しており、南関町や和水町は福岡県に接して長洲町は有明海に面します。小高い丘陵地でみかんや梨の果樹栽培が盛んで、玉東町はスモモ・ハニーローザの栽培面積が日本一です。南関あげや南関そうめんの発祥地でもあります。

概要

面積
211.46km2
人口
37,808人(2022年2月1日)
含む町村
玉東町、南関町、長洲町、和水町
地図

歴史

太宰府から官道が整備されて交通の要衝となりました。江戸時代には鹿児島から熊本を経由して小倉へと続く薩摩街道が整備され、明治時代に起きた西南戦争では、街道を進軍する政府軍と薩軍が各地で激突して、田原坂や吉次峠などが激戦地となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文時代の人の営みが残されており、三ノ岳の中腹にある大谷石器製作遺跡から安山岩でつくられた石斧が発見されています。東山遺跡の周辺において弥生時代後期の遺物が採集されています。

熊本県玉名郡のトンカラリン

トンカラリン

水路説、信仰遺跡説など多くの謎を残す石造トンネルです。全国に類例のない遺跡で、全長464メートルあります。

古墳時代、飛鳥時代

4~5世紀に二俣台地の⻄端に⽯棺群が造営されました。菊池川流域を中心に多くの豪族が台頭し、古墳を造営しました。

景行天皇と名石神社

景行天皇18年(148年)に玉杵名邑と呼ばれていました。景行天皇を追いかけた日向御刀媛とお付きの女官は、景行天皇がすでに出発していたことを知り、悲しみのあまり有明海に身を投じて石となり、名石神社のご神体として祀られたとされています。

熊本県玉名郡の江田船山古墳

江田船山古墳

5世紀後半頃に造られたとされる墳丘長62メートルの前方後円墳で、日本最古級の漢字が刻まれた銀象嵌の太刀が出土したことで知られます。

熊本県玉名郡の若宮古墳

若宮古墳

5世紀代に諏訪原台地の南縁に造営された全長50メートルの前方後円墳です。円筒埴輪や朝顔形埴輪などが発掘されました。

熊本県玉名郡の長力横穴1号

長力横穴1号

5世紀後半から6世紀後半に造営されたとされる古墳群です。長力横穴群は清原台地の東側の谷に2基確認され、1号は線刻の装飾文様が描かれています。

熊本県玉名郡の塚坊主古墳

塚坊主古墳

6世紀初頭に造営された墳長43メートルの前方後円墳で、主体部は石室構造で内部の石屋形の内壁に赤・白・灰色で三角文や円文が描かれています。

熊本県玉名郡の虚空蔵塚古墳

虚空蔵塚古墳

6世紀初頭に築造された墳長52メートルの前方後円墳で、墳頂に虚空蔵菩薩が祀られていることから名付けられました。

熊本県玉名郡の江田穴観音古墳

江田穴観音古墳

7世紀初頭に築造された菊池川左岸の諏訪原台地南端にある円墳です。直径17メートルで主体部に複室の横穴式石室があります。

奈良時代、平安時代

飛鳥時代から奈良時代にかけて律令体制が整い、肥後国の行政の中心の一つとなり郡衙が置かれました。大宰府から肥後国に向かう官道に大水駅が置かれ、平安時代には大津山関と呼ばれる関所が置かれました。平安時代には多萬伊名と呼ばれるようになり、やがて玉名に転じたとされます。

熊本県玉名郡の稲佐廃寺跡

稲佐廃寺跡

奈良時代末期から平安時代に存続した寺院の跡で、瓦葺の講堂、塔、金堂の基礎となる礎石が確認されています。

熊本県玉名郡の西原製鉄遺跡

西原製鉄遺跡

平安時代末から鎌倉時代初期の古代製鉄遺跡です。金峰山三ノ岳の緩斜面地では製鉄が盛んで玉東町内だけでも10か所の製鉄遺跡が確認されています。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉時代に遠江国から下向した相良氏が山北地方を支配し、西安寺跡を菩提寺としました。正平4年/貞和5年(1349年)に足利直冬が肥後河尻に下り、豪族託麻宗直が足利直冬を助けました。この功により託麻宗直が臼間野荘の地頭職となりました。

熊本県玉名郡の豊前街道(腹切坂)

豊前街道(腹切坂)

熊本と小倉を結んだ豊前街道の一部です。壇ノ浦の戦いで敗北した平家の落ち武者が武運が尽きたとして見事に切腹して果てたことから名付けられました。

熊本県玉名郡の西安寺跡

西安寺跡

鎌倉幕府から派遣された相良一族が建立した古寺で、山北相良家の菩提寺となりました。境内には6基の五輪塔や板碑が残されています。

室町時代、安土桃山時代

天正15年(1587年)に隈府城主の隈部親永は、豊臣秀吉に肥後支配を任された佐々成政の検地に抵抗し、肥後国衆一揆が起こりました。田中城は反乱の最後の砦となり、豊臣軍と2カ月にわたり激戦となりました。反乱を鎮圧した豊臣秀吉は、全国で刀狩りを行いました。

熊本県玉名郡の田中城跡

田中城跡

肥後から筑紫を支配した肥後国衆の和仁親実の居城で、豊臣秀吉に肥後支配を任された佐々成政の検地に抵抗し肥後国衆一揆が起こりました。

江戸時代

立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、妻の立花誾千代は加藤清正に身を寄せました。立花誾千代は玉名郡腹赤村で居住し、慶長7年(1602年)に亡くなると屋敷跡に墓碑が建てられました。鹿児島から熊本を経由して小倉へと続く薩摩街道が整備され、交通の要衝として栄えました。寛永4年(1792年)に島原半島の眉山が崩壊して大津波を引き起こし、長洲町で大きな被害が出ました。

熊本県玉名郡の小代焼窯跡群

小代焼窯跡群

寛永9年(1632年)に細川忠利が肥後に入国したときに豊前国上野から移り住んだ陶工が始めました。自然の傾斜地を利用した連房式登り窯です。

熊本県玉名郡の豊前街道(南関御茶屋跡)

豊前街道(南関御茶屋跡)

嘉永5年(1852年)に完成した施設で、藩主が参勤交代などで休憩や宿泊所として使用しました。大政奉還で個人の所有となり、民家や料亭として使用されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治10年(1877年)の西南戦争で、南関町や玉東町が激戦地となりました。家は焼かれて田畑は荒らされました。木葉地域では石灰産業や生糸産業が地場産業が定着していき、昭和時代に長洲町で大規模な干拓事業が実施され、稲作や野菜栽培が町の主要産業となりました。

熊本県玉名郡の城ノ原官軍墓地

城ノ原官軍墓地

主に高瀬や木葉方面で戦死した政府軍の墓地で、政府軍将校177名が埋葬されています。西南戦争時は野戦病院の西宗寺に仮埋葬されていました。

熊本県玉名郡の肥猪町官軍墓地

肥猪町官軍墓地

鍋田の戦闘で戦死した政府軍兵士の墓地で、兵士や警察官など180名が埋葬されています。昭和52年(1977年)に西南戦争100年を記念して県指定史跡になりました。

熊本県玉名郡の下岩官軍墓地

下岩官軍墓地

田原坂の戦いに続く岩村・鍋田方面の激戦で戦死した政府軍兵士の墓地で、政府軍将校133名と軍夫16名が埋葬されています。