菊池郡

菊池郡は熊本県中北部にある大津町と菊陽町で構成されます。東には阿蘇連山があり東西に貫流する白川の流れにより南部平野は肥沃な水田地帯を形成しています。南部には空の玄関口である熊本空港があり、西部には九州自動車道が南北に通じています。
概要
- 面積
- 136.56km2
- 人口
- 79,589人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 大津町、菊陽町
- 地図
歴史
菊池郡は延暦寺領に派遣されて支配した合志氏が統治しました。合志氏は肥後国守護の菊池氏の重臣となりましたが、薩摩国島津氏の侵攻により制圧されました。江戸時代に加藤清正が豊後街道を整備して宿場町を置いて治水工事を行い水田を広げました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
白川右岸に六地蔵遺跡や梅の木遺跡が造営され、左岸に戸次遺跡や辛川遺跡など縄文時代から弥生時代に人が生活していた痕跡が残されています。

無田原遺跡
縄文時代早期に矢護川沿いの台地上に造営された遺跡で、神型文土器や条痕文土器を伴う3墓の集石遺構のほか弥生時代前期の16基の甕棺も出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
7世紀中期から後期にかけて白川右岸に単室復床志岐横穴墓である今石横穴群が造営されました。
奈良時代、平安時代
特に記録は見つけられませんでした。
鎌倉時代、南北朝時代
六道塚古墳では、延元元年/建武3年(1336年)に南朝方の菊池武敏・阿蘇惟澄連合軍と北朝方の今川蔵人大夫、託磨別当宗直、小代重峯、小代光信らが激戦を繰り返しました。正応3年(1290年)の浅原八郎為頼の乱に与して比叡山に逃れた佐々木四郎高綱の子・佐々木重綱は、延暦寺領の肥後合志郡の寺領奉行として下向し、合志城を築いて合志姓を名乗るようになりました。合志氏は南北朝の争乱で肥後国守護の菊池氏の支配下となりました。
室町時代、安土桃山時代
合志氏の一族は、現在の日吉神社に東嶽城を築いて大津十朗義兼を名乗りました。合志氏は台頭する薩摩国守護の島津氏からの侵攻に備えて、帆保因幡守安重を城主とする玉岡城や須屋市蔵を城主とする須屋城などと共に今石城を築城しましたが、天正13年(1585年)島津軍の侵略により合志伊賀守隆知が討ち取られました。
江戸時代
天正16年(1588年)に入国した加藤清正は、白川左岸中流域の畑地を水田化するために馬場楠井手を建造したほか、肥後国と豊後国を結ぶ豊後街道の大規模な整備を行い大津宿を置きました。加藤家が改易されて細川家が藩主となると藩政の役所である大津手永会所が設けられ、寛永12年(1635年)頃に鉄砲衆が配置されました。

馬場楠井手の鼻ぐり
加藤清正が築造させたと言われる井出(用水路)で、鼻ぐり構造と呼ばれるトンネル状の穴が開いた壁が複雑な水流を生み出し、土砂や火山灰の堆積を防いでいます。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により熊本県となり、翌年に現在の熊本県の前身となる白川県に所属しまし、明治12年(1879年)に郡区町村編制法が施行されたことで菊池郡が発足しました。