阿蘇郡

阿蘇郡は熊本県の東北部に位置する山間地帯で、阿蘇山を中心に南小国町、小国町、産山村の北部と高森町、西原村、南阿蘇村の南部に分かれています。そのほとんどが阿蘇くじゅう国立公園に属しており、放牧や野焼きなどで雄大な草原が維持されています。
概要
- 面積
- 703.25km2
- 人口
- 33,270人(2021年12月1日)
- 含む町村
- 南小国町、小国町、産山村、高森町、西原村、南阿蘇村
- 地図
歴史
阿蘇神社の大宮司が阿蘇荘の荘官となり、やがて武士団を形成して広大な領土を統治しました。一時的に一族が肥後国守護を務めましたが、島津氏に攻められて島津氏、加藤氏、細川氏と領主が代わりました。加藤清正が整備した豊後街道には内牧宿などが設けられ参勤交代などで利用されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
片俣住居跡や片俣樽尾住居跡から縄文時代の石器が出土し、弥生時代の青銅器や鉄器も出土しています。下小森前鶴遺跡から出土した免田式土器は弥生時代後期に使われていた土器で、大和朝廷と敵対していた熊襲の集団が使用していた土器と言われています。阿蘇カルデラ北部の阿蘇谷では多くの古墳群が築造されましたが、南郷谷では柏木谷遺跡のほか高森町の色見遺跡と久木野村の六の小石古墳群のみです。

柏木谷遺跡
阿蘇カルデラ南部の南郷谷にある縄文時代から古墳時代までの複合遺跡で、円墳や周溝墓などが確認されています。
古墳時代、飛鳥時代
横穴墓の神籠山横穴古墳と土行松古墳が造営されました。
奈良時代、平安時代
神健磐龍命と国造速瓶玉命の直裔と伝えられる宇治友成は阿蘇神社の大宮司となりました。やがて武士団を形成して阿蘇郡の郡司から阿蘇荘の荘官となり、宇治惟泰は阿蘇姓を名乗り熊本平野まで勢力を伸ばしました。阿蘇惟泰は治承4年(1180年)に平清盛が起こした治承・寿永の乱にも参加しています。
鎌倉時代、南北朝時代
阿蘇惟泰の子阿蘇惟次は、承元元年(1207年)頃に浜の館を建造して本拠地とし、阿蘇家の一族は阿蘇南麓に高森城を築いて高森氏を名乗り、含蔵寺を菩提寺としました。阿蘇惟直が戦死して惣領家が断絶の危機となると、北朝方の足利尊氏が阿蘇家分家の坂梨孫熊丸を擁立に推したため、南朝方の阿蘇氏は阿蘇家分家の恵良惟澄を次期当主として擁立しようとして内乱となりました。興国2年/暦応4年(1341年)に恵良惟澄が孫熊丸を討ち取りますが、家中は混乱して南朝と北朝が大宮司を繰り返すこととなりました。

満願寺石塔群付杉群
文永11年(1274年)の元寇に際して、鎮西奉行北条時定が国土安泰、戦勝祈願のため満願寺を建立しています。

満願寺庭園
満願寺が創建される前に北条氏と縁の深い梶原一族が造営したと伝わり、九州最古といわれる池泉観賞式庭園です。
室町時代、安土桃山時代
文明16年(1484年)の馬門原の戦いで勝利した阿蘇惟憲は阿蘇一族を纏めました。阿蘇惟憲の子・阿蘇惟長が肥後国守護の菊池氏に入り守護職を継承して弟の阿蘇惟豊に大宮司の職を譲りましたが、阿蘇惟長は菊池家中と対立して守護職を辞して阿蘇に戻り、譲渡していた大宮司の地位を求めて阿蘇惟豊と家中で争うようになりました。
島津氏の侵攻
阿蘇惟豊は甲斐親宣の力を借りて内乱を終わらせて阿蘇家中を統一しますが、台頭してきた島津氏の圧力を受けるようになり、当主阿蘇惟将や甲斐宗運やが亡くなると島津氏の侵略されて降伏します。高森城主高森惟直は阿蘇惟光が岩尾城から逃亡したあとも抵抗を続け、高森方の津留大蔵が島津軍の先方深水摂津介を討ち取りましたが、高森城は落城して高森惟直をはじめ山村宗時や武田大和守元実は討死しました。
江戸時代
九州討伐で島津氏が降伏してから加藤清正が肥後国に入ると、江戸時代には初代熊本藩主となりました。加藤清正は肥後国熊本から豊後国鶴崎まで豊後街道を整備して参勤交代で使用されるようになり、阿蘇に的場宿、内牧宿、坂梨宿が設けられました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により熊本県が置かれました。明治10年(1877年)の西南戦争では安楽寺跡に官軍本営が置かれ、阿蘇郡では有志隊が結成されて警視隊に協力しました。大津から二重峠に進出した薩軍と政府軍は交戦となり、二重峠・黒川口の戦いと滝室坂の戦いが起きました。明治時代から大正時代にかけて多くの石造アーチ橋が架橋されて交通が発達しました。終戦を迎えて高度経済成長期を迎えると昭和39年(1964年)にやまなみハイウェイが開通するなど交通の便が良くなりました。

黒川温泉
江戸時代に開湯した小国町の山間部にある秘湯です。交通が整備されて観光客が訪れるようになり、静かな雰囲気が人気を集めています。
阿蘇の文化的景観

産山村の農村景観
波状高原と浸食された急傾斜の丘陵地域から成る地域に水源地が多数あります。一覧三山の台からは阿蘇・九重・祖母の3山が一望できます。

阿蘇外輪山西部の草原景観
阿蘇カルデラの外輪山の稜線より外側(西側)に位置する地域では俵山地区をはじめとして外輪山の草地を利用しながら林業及び農業が一体的に営まれてきました。

阿蘇山南西部の草原及び森林景観
阿蘇カルデラ南部の南郷谷は火山性の地質のため土地が痩せており、施肥に必要な草地と放牧地を一体的に利用しました。

根子岳南麓の草原景観
阿蘇カルデラ南部の南郷谷の東部は中央火口丘側は比較的緩やかな斜面を有するため広い草地が営まれてきました。

南小国町西部の草原及び森林景観
阿蘇カルデラの北側に位置する小国郷南部では、古くから各集落が草地を維持しながら小河川沿いの谷筋を林地及び耕作地として利用してきました。

涌蓋山麓の草原景観
阿蘇カルデラの北側に位置する小国郷北部では、古くから草地を利用して小規模な畑地耕作を一体的に営み林業も拡大させてきました。