上益城郡

上益城郡は熊本県のほぼ中央部に位置し、滝や渓谷など豊かで美しい自然に恵まれています。御船川や緑川などの河川に囲まれ、阿蘇の伏流水といわれる湧水地が点在する一大湧水群を形成しています。阿蘇くまもと空港もあり移動に便利なことから、近年は熊本市のベッドタウンとしての性格を帯びています。
概要
- 面積
- 783.96km2
- 人口
- 81,835人(2021年12月1日)
- 含む町村
- 御船町、嘉島町、益城町、甲佐町、山都町
- 地図
歴史
古くから人の営みがあり、交通の要衝にある宿場町として栄えました。中世に阿蘇氏の支配下に置かれ、南北朝時代から幾度も戦場となりました。明治時代の西南戦争では北上する薩軍と政府軍が戦闘となり、激戦が繰り広げられました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
御船は日本で初めて肉食恐竜ミフネリュウの化石が発見されました。託麻台地や北甘木台地を中心に人の痕跡を示す旧石器時代の石器が見つかりました。縄文時代には古閑遺跡など扇状地内の微高地で集落が確認されるようになり、弥生時代には平田遺跡や東無田遺跡で棺墓が確認されるようになります。

肥後領内名勝地(五郎ガ瀧)
阿蘇氏が朝廷の勅使である烏丸大納言に御覧に入れた滝から名付けられました。高さ50メートルあり、滝つぼの近くまで徒歩で行くことがきます。

肥後領内名勝地(聖リ瀧)
滝の中腹の岩が修行をしている僧侶の姿に似ていることから名付けられました。緑川水系の笹原川にある滝で、高さ30メートル、幅10メートルあります。

高畑赤立遺跡
弥生時代後期の集落跡で、竪穴建物跡が7基確認されました。磨製石鏃の未成品が確認されており、他の地域へも磨製石鏃を供給していたと考えられています。
古墳時代、飛鳥時代
景行天皇の九州制圧のとき船を着けたことから、御船の地名が生まれました。木山川に面した小柳遺跡で集落が形成し、城の本古墳群で墳墓や箱式石棺が見られます。古墳時代後期には巨大な岩を積み重ねた鬼の窟古墳や狐塚古墳が造営されました。

井寺古墳
水田地帯に囲まれた井寺丘陵に築造された6世紀初めの円墳です。石室内部には赤や白で描かれた直弧文や同心円の装飾文様が残されています。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立してた詫間郡が形成し、のちに益城郡に属しました。
鎌倉時代、南北朝時代
御船の御船盛安のほか、光永氏や木山氏など阿蘇氏の一族が一帯を領有しました。
室町時代、安土桃山時代
御船行房は阿蘇氏の智将・甲斐宗運に討たれ、甲斐宗運が支配しました。天正15年(1587年)に豊臣秀吉により肥後は二分され小西行長が治めましたが、関ヶ原の戦いにより加藤清正が支配ました。

陣ノ内城跡
甲佐岳から伸びる尾根の先端部に小西行長が築いた織豊系城郭の特徴を残す城で、現在も堀や土塁跡が良好に残されています。
江戸時代
熊本城下から日向延岡へ至る日向往還が横断し、宿場町として浜町が栄えました。寛永9年(1632年)に加藤氏が改易されると、入封した細川忠利は行政区分である手永制度を設け、この地域に矢部手永や甲佐手永が置かれました。矢部手永の惣庄屋・布田保之助が水不足に悩む白糸台地に水を送るため、嘉永7年(1854年)に用水路として有名な通潤橋の建設を主導しました。江戸時代末期に山都町に伝えられた人形浄瑠璃は、清和文楽として受け継がれています。

通潤橋
布田保之助が熊本八代の種山石工の協力を得て建築された日本最大の石造単アーチ橋です。石造アーチ式水道橋の中で唯一放水できることで知られています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治10年(1877年)の西南戦争で、妙見坂公園は熊本隊が政府軍と激戦となりました。大正元年(1912年)にに緑川水系が大洪水を起こしたため、治水工事が行われました。平成28年(2016年)の熊本地震で大きな被害を受け、その記憶を継承する取り組みが進められています。

小笹円形分水
昭和31年(1958年)に建造された円形分水で、笹原川の水を白糸台地と野尻・笹原地区に分水します。耕作面積に応じて公平に分水されるように工夫されています。