八代郡

八代郡は熊本県の中心に位置し、東部は緩やかな丘陵地帯で中央部から海岸部にかけて平野が広がり、中央を九州山地から八代海に注ぐ氷川が貫流します。平地は田園風景が広がり、山間部は吉野梨や晩白柚をはじめとするかんきつ類の栽培が盛んです。
概要
- 面積
- 33.36km2
- 人口
- 10,797人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 氷川町
- 地図
歴史
八代郡は古墳時代に火の君が治め、最盛期には肥前国まで影響を及ぼしていました。ここから火の国と呼ばれるようになり、これが肥後国に転じたと言われます。奈良時代から農地開発が行われて穀倉地帯となり、昭和時代の食糧難には西の八郎潟言われる不知火干拓をはじめ平坦地帯が整備されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
およそ1万年前から人の営みが残されています。縄文時代の中期以降に多くの貝塚が造られ、縄文時代中期から晩期に西平貝塚が造営され、九州の縄文時代後期を代表する西平式土器が出土しています。

肥後領内名勝地(建神ノ岩)
肥後領内の滝や奇岩、洞窟、平原、山川など名勝地を描いた領内名勝図巻に記載されている国指定の名勝です。
古墳時代、飛鳥時代
火の君と呼ばれた豪族が住んでいたと言われます。継体天皇21年(527年)に筑紫国の磐井が大和王権に対して反乱を起こすと、火の君は大和王権に与して反乱を鎮圧して肥前国まで支配が及んだと言われます。6世紀初頭から中期の野津古墳群は火の君一族の墳墓と考えられており、物見櫓古墳、姫ノ城古墳、中ノ城古墳、端ノ城古墳の4基の前方後円墳で構成されます。

大王山古墳第三号
古墳時代前期の4~5世紀に造営された直径30メートルの円墳と考えられています。

野津古墳群(物見櫓古墳)
6世紀初頭に建造された全長62メートルの前方後円墳で、純金製耳飾やガラス玉、鉄鏃、鉄矛、馬具、須恵器などが出土しました。

野津古墳群(姫ノ城古墳)
6世紀前半~中期に造営された全長86メートルの前方後円墳で、衣笠の笠部や盾などの石製表飾品が複数出土しています。

野津古墳群(中ノ城古墳)
6世紀前半の墳丘長102メートルの前方後円墳で野津古墳群中で最大規模を誇ります。ガラス玉や鉄刀、甲冑、馬具などが出土しています。

大野窟古墳
古墳時代後半の6世紀後半に建造された熊本県内で最も大きな前方後円墳です。須恵器や朝鮮半島の土器などが出土しています。
奈良時代、平安時代
肥後国は租税徴収能力が高いことから条里制が布かれ、奈良時代から平安時代にかけて農地開拓が行われたと言われています。平治元年(1159年)には二条天皇の勅命で平盛俊が宮原三神宮の社殿を造営しています。
鎌倉時代、南北朝時代
特に記録は見つけられませんでした。
室町時代、安土桃山時代
永正11年(1514年)に橘公資が宮原城を居城と定め、公高、公次を経て公忠が宮原氏と名乗りました。宮原公忠は相良氏に仕えて宮原40余町の地頭となりました。
江戸時代
江戸時代には参勤交代路として薩摩街道が整備され、宿場町および門前町として栄えました。また八代湾の干拓事業も進められ、嘉永5年(1852年)には沖塘の樋門が築造されるなど大規模な干拓が行われました。
明治時代、大正時代、昭和時代
戦後の食糧増産対策として昭和26年(1951年)から16年かけて不知火干拓が行われました。東の八郎潟に対して西の不知火干拓と呼ばれ、大規模な営農が行われるようになりました。