葦北郡

葦北郡は熊本県の南西部に位置し、西は不知火海に面しています。山林、丘陵地帯が多く山岳地帯から球磨川や佐敷川などの河川が不知火海に流入します。芦北町と津奈木町を結ぶ津奈木多郎峠は、佐敷太郎、赤松太郎とともに三太郎峠と呼ばれています。
概要
- 面積
- 268.07km2
- 人口
- 19,295人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 芦北町、津奈木町
- 地図
歴史
丘陵地帯に住んでいた古代の人びとは、縄文時代以降に海外に近い低地へと下り定住するようになりました。南北朝時代から支配下名和氏を人吉の相良氏が追い出しますが、島津氏の台頭により割譲されました。島津氏の牽制は江戸時代も続き、加藤氏が近代城郭の佐敷城を築き、薩摩街道に番所を設置しています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の葦北郡の人びとは丘陵地帯で生活しており、芦北町の熊ヶ倉遺跡から遺物で発見されました。やがて人びとは低地に移動して定住するようになり、弥生時代後期には南九州特有の地下式石積石室墓が造営されるようになりました。芦北町にある宮浦地下式板石積石室古墳群は20~30基の墓が造営され、弥生時代の土器、鉄鏃や鉄剣などが出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
芦北町に造営された丸山古墳には、畳大の板石を矩形に組み立てられた石室がありました。石室の内部は朱色に塗られ、底部に敷き詰められた丸い小石の上に頭蓋骨2体が発掘されていました。
奈良時代、平安時代
奈良時代末期に編纂された万葉集の歌人長田王は、野坂乃浦から八代市の水島に渡りました。そのときに詠んだ歌が万葉集に収録されています。
鎌倉時代、南北朝時代
南北朝時代には八代を拠点とする名和顕興が津奈木城を築城し、支城の一つとして一族の加悦泰行が城番を勤めました。
室町時代、安土桃山時代
応仁元年(1467年)以降に人吉の相良氏が名和氏を追放すると、津奈木城は相良氏の支城として深水宗方などが城代となりました。天正9年(1581年)に島津氏が肥後侵攻を開始すると、相良義陽は八代と芦北を譲渡する形で降伏し津奈木城は水俣城とともに落城しました。天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐により、芦北郡は豊臣秀吉の直轄領となりました。
梅北一揆
文禄元年(1592年)に島津家の家臣である梅北国兼は、豊臣秀吉の支配に反抗して佐敷城を占拠しました。梅北勢は東郷甚右衛門を大将として八代の麦島城を攻めに向かいましたが、佐敷城が奪還されたため引き返し、田浦で交戦となり東郷甚右衛門らは戦死しました。佐敷城は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦で西軍に与した島津氏の攻撃を受けています。
江戸時代
慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、葦北郡の一帯は熊本藩主加藤清正が治めました。佐敷には薩摩街道の宿場が置かれ、薩摩国と行き交う人を監視するため番所が置かれました。幕末になると、石工の技術者集団である種山石工が中心となり芦北町に門口眼鏡橋や橋本眼鏡橋が、津奈木町に重盤岩眼鏡橋が架橋されました。

佐敷城跡
加藤清正が薩摩国の島津氏の侵攻に備えて築城した近代城郭で、佐敷城跡からは天下泰平銘鬼瓦などの遺物が発見されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治政府により富国強兵と殖産興業が推進されると、武士は行き場を失い九州を中心に内乱が頻発しました。明治10年(1877年)に勃発した最大の内乱である西南戦争では、芦北地方の最高峰である大関山は激戦地となりました。内乱が終息すると、荷馬車すら通れない急峻な難所の赤松太郎峠、津奈木太郎峠、佐敷太郎峠の三太郎峠には、明治34年(1901年)に津奈木隧道、明治36年(1903年)に佐敷隧道が竣工して格段に便利になりました。