球磨郡

球磨郡は南九州の中央部に位置し、霊峰市房山をはじめとする九州中央山地に囲まれた山深い地域です。日本三急流のひとつ球磨川が東西に貫流し、人吉盆地に水田地帯を形成しています。水利の便に恵まれて農林業が発達し、良質米のほか果実や椎茸などが特産です。
概要
- 面積
- 1,326.02km2
- 人口
- 49,134人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 錦町、多良木町、湯前町、水上村、相良村、五木村、山江村、球磨村、あさぎり町
- 地図
歴史
球磨郡は旧石器時代から人の営みが残されています。古墳時代には前方後円墳や断崖の横穴墓のほか横穴式石室を持つ古墳が造営されています。武士が台頭して平家が滅亡すると五木村には平家が落ち延び、球磨郡は相良氏が統治するようになり、相良氏統治のもと明治時代を迎えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の遺物や縄文・弥生時代の遺物が出土しています。潮山・クノ原遺跡では石器や石材の集中(ブロック)が認められ、少人数のグループで移動生活を行う人びとが一時的に集合して大型動物を捕獲した痕跡と考えられています。
古墳時代、飛鳥時代
多くの古墳が造られましたが、多くが後世の耕作や開発で破壊されました。

亀塚古墳群1号墳
造営時期は明らかではありませんが、球磨地方で唯一の前方後円墳が3基残されています。

京ガ峰横穴群
6世紀後半に阿蘇溶岩の崖面に横穴墓が造営されました。京ガ峰横穴群の1号墳は靫、盾、車輪や人物と思われるものが浮き彫りにされています。

才園古墳群
6世紀末から7世紀に造営された古墳群で露出した石室が残されます。小規模な横穴式石室の内部には朱色に塗られた痕跡が残されています。

鬼の釜古墳
6世紀末から7世紀に造営された古墳で、巨石を積んで作られた横穴式石室が残されています。
奈良時代、平安時代
元暦2年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家が滅びると、九州は幕府の預かりとなり再編されることになります。五木村は平家の落人が戦に敗れたどり着いた落人村といわれます。
鎌倉時代、南北朝時代
建久4年(1193年)に相良頼景が球磨郡多良木村を拝領し、元久2年(1205年)に頼景の嫡子相良長頼が人吉荘の地頭職を拝命して遠江国相良荘から下向しました。多良木家と人吉家は所領問題で関係が悪化し、南北朝時代には多良木家は南朝方、人吉家は北朝方として争いました。やがて全国的に北朝方が優勢となり、北朝方の人吉家が一族を束ねるようになりました。

青蓮寺古塔碑群
蓮寂と追刻された五輪塔は、建久4年(1193年)に遠江から下向した相良頼景の墓と考えられています。

勝福寺古塔碑群
在地豪族の須恵氏、相良氏家臣、勝福寺住職関連の墓と言われ、弘安4年(1281年)の銘がある五輪塔を始め数千基ともいわれる石塔が残されています。
室町時代、安土桃山時代
永禄2年(1559年)に相良義陽の重臣丸目頼美と東長兄が対立して、多良木付近で獺野原合戦に発展しました。湯前城を居城とする東直政は丸目方として参戦しますが敗死して湯前城は落城しました。東能登は一武城から湯前城に移り竹下監物が地頭となりますが、犬童清兵衛と対立して湯前城に籠城抗戦しました。

神瀬石灰洞窟と岩戸熊野座神社
室町時代に時竜音寺と厳龍寺と呼ばれる修験堂が建てられ霊場となりました。やがて廃寺となり天正6年(1578年)に岩戸熊野座神社が創建しました。
江戸時代
剣法タイ捨流を創始した剣豪丸目蔵人佐長恵は、晩年に錦町で過ごして田畑や水田を開きました。

百太郎溝
地元農民たちは百太郎溝を開削し、人吉藩士高橋政重は元禄9年(1696年)に幸野溝を開削しました。百太郎溝と幸野溝により開発された新田は藩財政を向上させました。

上村焼窯跡及び灰原
朝鮮出兵で連行された陶工は茶壷や花瓶などを製造しました。江戸時代後期に最所氏は上村焼窯を造営しますが、明治10年(1877年)の西南戦争の兵火で廃絶しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治10年(1877年)の西南戦争では、浅鹿地区に政府軍の本営が置かれ、幸野(水上村)が戦場となりました。