歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

天草郡

熊本県天草郡の富岡城跡

天草郡は、熊本県の南西部に点在する天草諸島のうち最も大きな島である天草下島の北西端に位置しています。西は天草灘、北は千々和灘に面しており、細く突き出た富岡半島は雲仙天草国立公園に含まれ、全国で最初に海中公園の指定を受けました。

概要

面積
67.58km2
人口
6,847人(2022年2月1日)
含む町村
苓北町
地図

歴史

天草郡は中世に天草五人衆のひとつ志岐氏が治めていました。戦国時代末期に宇土城普請に反発した天草五人衆は小西・加藤らに攻められて滅亡又は領地没収となりました。江戸時代には代官所が置かれ、天草全土の郡政を治めて天草の政治、経済、文化の中心地として繁栄しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

天草郡では土器などが出土していることから、縄文時代や弥生時代から人びとが生活していたと考えられています。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代に富岡村では天草式古代製塩土器による製塩が行われ、国内の他の地域や他国とも取引されていました。

奈良時代、平安時代

特に大きな記録は見受けられませんでした。

鎌倉時代、南北朝時代

元久2年(1205年)に藤原光弘が志岐六ヶ浦の地頭に任じられ志岐姓を名乗りました。志岐氏は肥後国守護の一色氏、菊池氏などの影響を受けながら坂瀬川、志岐、都呂々、富岡を含む天草下島の北部一帯を統治しました。

室町時代、安土桃山時代

永禄9年(1566年)にルイス・デ・アルメイダが志岐でキリスト教を布教し、キリスト教は志岐を中心に天草全土に広がりました。南肥後を治めていた小西行長は、天正17年(1589年)に宇土城の普請夫役を天草五人衆に命じましたが、志岐麟泉はこれを拒否して天草五人衆は国人一揆を起こしました。天草氏に身を寄せていた木山弾正は、仏木坂の戦いで加藤清正に一騎打ちを挑んで討ち取られ、形勢は決して志岐氏は滅亡しました。

江戸時代

慶長6年(1601年)に唐津藩主寺沢広高が天草を領有して翌年に富岡城を築きました。寛永14年(1637年)の島原・天草一揆で一揆勢は富岡城代三宅藤兵衛を倒して富岡城を攻撃しました。寛永18年(1641年)に天草の初代代官として派遣された鈴木重成は天草の人びとを苦しめてきた重税を減らすため、承応2年(1653年)に石高半減を幕府に嘆願して切腹して果てました。

熊本県天草郡の富岡城跡

富岡城跡

唐津藩主寺沢広高が築城しました。島原・天草一揆で攻撃されますが、一揆が終結した翌年に領主となる山崎甲斐守家治が修築しました。

熊本県天草郡のアダム荒川殉教公園

アダム荒川殉教公園

ガルシア・ガルセス神父が追放されるとアダム荒川が志岐教会を守りました。アダム荒川は3カ月にわたり迫害受け、慶長19年(1614年)に斬首に処されました。

熊本県天草郡の天草四郎乗船之地

天草四郎乗船之地

島原・天草一揆により天草四郎率いる一揆勢は富岡城を攻めたあと松原川河口から船で渡海して島原の原城へ向かいました。

熊本県天草郡の富岡吉利支丹供養碑

富岡吉利支丹供養碑

鈴木重成は善政を敷いて正保4年(1647年)に島原・天草一揆で討死したキリシタン3300人ものを首を葬り富岡吉利支丹供養碑を建立しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治時代を迎えると、天草郡は幾つも所属を代えることになります。富岡県は天草県となり、その後長崎県天草郡となりました。明治5年(1872年)に八代県に合併してから明治7年(1874年)に白川県と合併し、明治10年(1877年)に熊本県の一部となりました。