歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

大分市

大分市の大分城

大分市は九州の東端に位置し、周辺部を高崎山、九六位山、霊山、鎧ヶ岳、樅木山などの山に囲まれています。大野川と大分川が南北に貫流しながら別府湾に注ぎ、その下流部は大分平野を形成しています。北部海岸は水深が深く、東部海岸は豊予海峡に面したリアス式海岸に天然の良港が形成されています。

概要

面積
502.38km2
人口
474,872人(2022年2月1日)
市の木
ホルトノキ
市の花
さざんか
地図

歴史

大分市は旧石器時代から人の営みがあり、奈良から平安時代には国府や国分寺が設置されました。鎌倉時代に豊後国守護として大友氏が治めるようになると、戦国時代に大友宗麟が九州6国に支配を広げて中国や東南アジア、ポルトガルなどと国際貿易を積極的に行いました。江戸時代には府内城と城下町が築かれ、政治、経済、文化の中心地となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

大分市は、古来より瀬戸内海を介して九州の東玄関口として交通の要となる役割を担いました。旧石器時代には大野川河口近くの台地に丹生遺跡が築かれました。縄文時代早期から後期まで4期にわけて変遷する横尾貝塚からは、姫島産黒曜石の大型石核や剥片が大量に出土しています。

大分市の大分市街

大分市街

大野川と大分川が貫流します。

大分市の横尾貝塚

横尾貝塚

姫島産黒曜石の石器が大量に発見されました。

弥生時代には集落が飛躍的に増大し、縄文時代後期から大分川河口付近に築かれた下郡遺跡では、弥生時代に大規模な集落が造営され、竪穴住居跡や集落を囲む環濠が発見されています。

古墳時代、飛鳥時代

4世紀から大分川や大野川流域には首長墓として古墳が築造され、6世紀後半からは九州地方で見られる横穴式石室古墳が造営されるようになりました。天武天皇元年(672年)の天智天皇の後継者争いである壬申の乱で大海人皇子は天武天皇として即位し、そのときに活躍した大分君恵尺の墓と考えられる古宮古墳が残されています。やがて天武天皇の皇后である鸕野讃良皇女は持統天皇として即位し、天皇を中心とした国家体制が築かれていきます。

大分市の小牧山古墳群

小牧山古墳群

4世紀前半から建造されて6基の方形墳・円墳・円墳・方形墳・方形墳・前方後円墳が残され、首長の世代交代のたびに築造されたと考えられています。

大分市の蓬来山古墳

蓬来山古墳

蓬来山古墳は3~4世紀のもので、市内では最も古い前方後円墳といわれています。

大分市の亀塚古墳

亀塚古墳

5世紀初めには県下最大規模の前方後円墳である亀塚古墳が築造されました。

大分市の築山古墳

築山古墳

北棺から女性の人骨1体と南棺から男性3体の人骨が発見されました。女性の人骨は地元で神として祀られている速吸日女という説があります。

大分市の滝尾百穴横穴古墳群

滝尾百穴横穴古墳群

滝尾百穴横穴古墳群には大小75の横穴が掘られる集団墓が形成されました。 大小75の横穴で構成される集団墓です。

大分市の丑殿古墳

丑殿古墳

6世紀後半から7世紀初頭に築造され、横穴式石室内に家型石棺が安置されました。

大分市の千代丸古墳

千代丸古墳

7世紀初めに賀来川の河川段丘上に築造された大分平野で唯一の装飾古墳です。

大分市の古宮古墳

古宮古墳

7世紀中期から後期に造営され、天武天皇元年(672年)の天智天皇の後継者争い(壬申の乱)で活躍した大分君恵尺の墓と言われます。

奈良時代、平安時代

701年に大宝律令が完成して中央集権が強化されて全国を統治する体制が整うと、神亀4年(727年)に金剛宝戒寺の前身となる寺が大分市花園の創建されました。天平勝宝元年(749年)までに豊後国分寺が創建され、天長4年(827年)には延暦寺の僧侶である金亀和尚が由原八幡宮を創建しています。

保元元年(1156年)に皇位継承と貴族の争いに武士が巻き込まれて保元の乱が起こりました。敗れた藤原頼長は豊後国稙田荘を没収され、上皇の荘園(後院領)となりました。

大分市の豊後国分寺跡

豊後国分寺跡

上野国、相模国と並び大規模です。

大分市の大分元町石仏

大分元町石仏

阿蘇の凝結溶解岩を彫り表面を塑土で整形した石仏です。

大分市の岩屋寺石仏

岩屋寺石仏

治承4年(1180年)に造られた石仏は凝灰岩質で浸食が甚だしいです。

大分市の高瀬石仏

高瀬石仏

治承4年(1180年)に造営された仏像です。

治承4年(1180年)に以仁王が平家追討の令旨を表明すると、各地で源氏が挙兵して治承・寿永の乱となりました。平家を京から西方へ追い込むと、文治元年(1185年)に臼杵惟隆・緒方惟栄らが源氏に兵船などを提供して平家は壇ノ浦の戦いで敗れ滅亡することになります。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、建久7年(1196年)に豊前と豊後の守護兼鎮西奉行として大友能直を任命しました。大友頼泰は仁治3年(1242年)に新御成敗状を制定して豊前と豊後の統治を確立していきました。文永11年(1274年)に元軍が来襲する文永の役では、大友頼泰が豊後国御家人を率いて筑前博多で戦いました。

大分市の曲石仏附双塔(五輪塔)磨崖連碑

曲石仏附双塔(五輪塔)磨崖連碑

釈迦如来のほか岩窟に菩薩が祀られます。

大分市の口戸磨崖仏附磨崖五輪双塔

口戸磨崖仏附磨崖五輪双塔

石窟内に3体の像が浮き彫りにされています。

鎌倉時代から室町時代にかけて磨岩仏や石塔がいくつも建てられました。曲石仏には釈迦如来の石仏が安座し、岩窟には平安時代後期に製作された阿弥陀如来をはじめ観音菩薩、勢至菩薩が祀られています。また口戸磨崖仏は凝灰岩を刳り抜いた石窟内に3体の像が浮き彫りにされています。戸次荘の有力者である平左近允幸広らは延文5年(1360年)に楠木生石造五重塔を造営しています。

大分市の楠木生石造五重塔

楠木生石造五重塔

平左近允幸広らが建造した石造の五重塔です。

大分市の金剛宝戒寺

金剛宝戒寺

仏師康俊が文保2年(1318年)に刻んだ大日如来です。

南北朝時代になると、建武2年(1335年)に大友一族、戸次氏、野上氏などが北朝の足利尊氏に与するようになりました。延文3年(1358年)には大友氏時らが高崎山城で懐良親王軍を撃退したことで、高崎山城は北朝方の拠点となりました。

室町時代、安土桃山時代

応永23年(1416年)に大友親著が豊後国・筑後国の守護識に補任されました。永正12年(1515年)には大友義長が大友義長条々を制定しています。戦国期に入ると天文19年(1550年)に大友二階崩れの変が起こり大友義鎮(宗麟)が大友家の家督を継ぎ、天文20年(1551年)に府内を訪れたフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許可しました。大友宗麟は北部九州の大半を支配下に治め、府内は世界にも知られた全国有数の貿易都市として医術、音楽、演劇など日本で最初の西洋文化が大きく花開きました。

大分市の大友氏遺跡

大友氏遺跡

大規模な庭園跡が発見されました。

大分市の府内城跡

府内城跡

竹中重利が天守閣などを建造して完成させました。

天正6年(1578年)に日向国高城で島津軍に大敗する耳川の戦いにより、大友氏は内部抗争もあり次第に衰退しました。こうした情勢において豊臣秀吉は九州征伐を敢行しますが、天正14年(1586年)に戸次川の戦いで秀吉援軍の長宗我部信親が戦死し島津軍の侵入により府内の町が焼失しました。やがて九州征伐が完了すると豊臣秀吉は天正15年(1587年)に大友義統に豊後国を安堵しましたが、朝鮮における大友義統の失態を理由に文禄2年(1593年)に大友氏は改易されました。府内には慶長2年(1597年)に福原直高(長堯)が入り府内城の築城に着手しました。

江戸時代

関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り東軍の勝利に貢献した竹中重利は慶長6年(1601年)に府内藩主となりましたが、その跡を継いだ竹中重義は密貿易が露見したことで切腹となり、寛永11年(1634年)に日根野吉明が府内藩主となりました。日根野吉明には嫡子がおらず明暦2年(1656年)に改易されると、明暦4年(1658年)に松平忠昭が府内藩主となりました。

大分市の参勤交代道路

参勤交代道路

今市の石畳と呼ばれています。

大分市の脇蘭室墓

脇蘭室墓

居宅の煙霞楼で子弟教育を行いました。

儒学者の脇蘭室は熊本藩校時習館の助教授となり、当時熊本藩の大分市鶴崎で子弟教育に尽くし多くの書籍や漢詩文を残しました。脇蘭室の居宅である煙霞楼で儒学を学んだ毛利空桑は、のちに豊後の三賢と言われる帆足萬里の下で学びました。毛利空桑は鶴崎に知来館を開塾して文武両道の教育に尽力して明治維新に大きな影響を与えました。

大分市の毛利空桑旧宅及び塾跡

毛利空桑旧宅及び塾跡

知来館を開塾して文武両道の教育を行いました。

大分市の毛利空桑墓

毛利空桑墓

毛利空桑の塾生たちは明治維新に貢献しました。

天保期に藩の財政が窮乏すると、天保13年(1842年)に家老岡本主米と豪商廣瀬久兵衛により府内藩の藩政改革として机張原に溜め池(方生池)を作り大開墾を行いました。安政5年(1858年)には府内城北之丸に府内藩校遊焉館が置かれ教育の場が生まれました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県により大分県となると、明治5年(1872年)に府内城跡に大分県庁が置かれました。明治10年(1877年)の西南戦争では、増田宋太郎率いる中津隊が県庁を襲撃して西郷軍が鶴崎を襲撃しています。明治44年(1911年)には大分町が大分市となりました。太平洋戦争では、昭和20年(1945年)に大分市大空襲により中心街がほぼ全焼しました。戦後には大分市は急速に復興を遂げ、昭和46年(1971年)に新日鉄大分製鉄所が創業を開始して工業都市として発展しました。