中津市

中津市は、大分県西北部に位置する大分県第3の都市です。北に周防灘が広がり、南には日本有数の渓谷である耶馬渓が形成されています。耶馬渓を源流とする山国川が市域の西部を貫流して中津平野を形成し、農業が盛んに行われています。
概要
- 面積
- 491.53km2
- 人口
- 82,210人(2021年11月1日)
- 市の木
- ナノミ(クロガネモチ)
- 市の花
- キク
- 地図
歴史
周防灘に面する中津平野は、古代官道が敷かれて下毛郡の郡衙が置かれ宇佐神宮の荘園となりました。鎌倉時代に宇都宮氏が下向して支配しますが、豊臣秀吉が黒田氏に与えて中津城を築いて統治を始めました。江戸時代は中津藩と天領日田代官が支配しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の遺跡は見つかりませんでしたが、細石器が発見されているため、古くから人の営みはありました。縄文時代に耶馬渓の山間部で生活していた人びとは、やがて山国川へと下り周防灘に面する干潟地帯で貝類などを捕食するようになりました。

枌洞穴
屋形川中流に出来た河蝕による洞穴で、縄文時代早期から後期までに埋葬された人骨68体のほか土器や石器が出土しています。

棒垣遺跡
縄文時代後期前半の石組み炉を持つ竪穴住居跡のほか、複数の成人人骨が伸展葬されていました。

植野貝塚
犬丸川下流の台地の端にある縄文時代後期の貝塚で、切目石錘が出土しています。

法垣遺跡
犬丸川沿いの縄文時代後期の集落跡で、竪穴住居跡6軒と掘立柱建物7棟が発見され、竪穴住居から埋葬された人骨が出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
豪族が生まれて古墳を造営するようになり、山国川沿いで稲作を営んだ豪族は相原山首遺跡に墓を形成しました。大和王権の影響が及ぶと、豪族は水田を管理して収穫物を官衙に納めました。

相原山首遺跡
5世紀の中津市内最大級の円墳、7世紀の方墳、8~9世紀の火葬墓へと首長の墓が変遷していく様子をたどることができる貴重な遺跡です。

相原廃寺跡付塔心礎
飛鳥時代に建てられて百済寺と呼ばれた古代寺院で、朝鮮半島寺跡にみる土壇形成の技術を取り入れています。
奈良時代、平安時代
豊前国下毛郡となり、官道には下毛駅が置かれました。沖代平野には正方形に区分けした条里制の跡が現在も残されており、水田は豪族たちが管理して長者屋敷官衙の倉庫に集められて官道を使い宇佐神宮などに運ばれました。

三角池と薦神社
養老3年(720年)の隼人の乱で三角池に生える真薦を枕にして宇佐八幡神の御験として祀られたことから、宇佐神宮の祖宮と言われています。

長者屋敷官衙遺跡
8~10世紀初めの下毛郡衙跡で、多くの米倉が置かれて焼け焦げた米が大量に出土したことから長者屋敷と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代、南北朝時代
文治元年(1185年)に平家が壇ノ浦で滅亡すると、源義経一派の掃討で功を得た宇都宮信房が田川郡伊方荘の地頭職などを与えられました。宇都宮氏は豊前国に土着するようになり、城井谷を拠点として城井姓を名乗るようになり、一族を各地に配して野仲氏、山田氏、西郷氏、友枝氏、佐田氏となりました。
室町時代、安土桃山時代
宇都宮氏は鎌倉時代後半に筑後国と豊前国の守護に任命されて豊前最大の武士団となりましたが、九州を平定した豊臣秀吉が豊前国を黒田孝高(如水)に与えました。豊前国を支配していた宇都宮一族はこれを不服として反旗を翻し、宇都宮鎮房は中津城内で誅殺され、合元寺に詰めていた家臣も急襲されて最後を遂げました。

長岩城跡
野中重房が建久9年(1198年)に築城しました。天正16年(1588年)に黒田長政の大軍に攻め落とされて廃城となりました。

合元寺
天正15年(1587年)に空誉上人が開山した寺で宇都宮家臣が急襲されて全滅しました。壁は塗り替えても血痕が浮かぶため赤壁にされています。
江戸時代
中津藩と天領日田代官が支配しました。慶長5年(1600年)に細川忠興が入り、寛永9年(1632年)に小笠原長次が入封しました。享保2年(1717年)に奥平昌成が入封しました。寛政2年(1790年)に藩主奥平昌高が藩校進脩館を創設しました。文化4年(1807年)に異国船に備えるため沿岸各地に烽火台が置かれました。

中津城跡
黒田孝高が築城を開始して細川忠興が元和7年(1621年)に完成させた城で、今治城、高松城とともに日本三大水城に数えられます。

中津城おかこい山
城下の守りをより強化するために造営された土塁で、城下を囲む総構えの土塁が残る城下町は九州では中津城が唯一です。

川平間歩の跡
山国川から取水して下毛原の丘陵まで水を引いた水路で、貞享3年(1686年)から3年かけて完成しました。
青の洞門
諸国遍歴の旅の途中この地を訪れた禅海和尚が鎖渡しと呼ばれる難所で命を落とす人馬を見て、洞門開削工事に取り掛かり、およそ30年かけて明和元年(1764年)に完成させました。

耶馬渓
日本三大奇景や日本三大奇勝のひとつで、漢詩人で思想家の頼山陽が耶馬渓天下無と漢詩に詠んだことで名付けられました。

禅海和尚
川平間歩の掘方を手本にしてミノひとつで岩壁を掘り進み、全長342メートル(うちトンネル部分は144メートル)の洞門を完成させました。

青の洞門
寛延3年(1750年)に第1期工事が完了して、人4文、牛馬8文の通行料を徴収して工事の費用に充てたため、日本初の有料道路とも言われています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により中津県、さらに小倉県、福岡県と変わり明治9年(1876年)に大分県の管轄となりました。明治4年(1871年)に増田宗太郎が皇学校を創立し、福沢諭吉の建議により市学校が創設されました。

福沢諭吉旧居
明治時代の思想家・福沢諭吉が幼少期を過ごした屋敷で、明治3年(1870年)に一家で中津を出たときに親類に売却されました。