日田市

日田市は大分県西部に位置し、三方を山に囲まれた盆地で、筑後川の源流である三隈川が市内を流れています。豊かな水資源に恵まれ、江戸時代には幕府直轄領として栄えたことから、水郷日田や九州の小京都と呼ばれました。
概要
- 面積
- 666.03km2
- 人口
- 61,440人(2022年2月1日)
- 市の木
- さざんか
- 市の花
- あやめ
- 市の鳥
- セキレイ
- 地図
歴史
鎌倉時代の御家人である日田氏が支配しましたが、戦国時代に大友氏に滅ぼされました。この頃から三隈川の水運を利用した商業が盛んになり、江戸時代に幕府直轄の天領として九州の政治・経済の中心地となりました。裕福な商人たちが集まり、九州の小京都と呼ばれました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人の営みが残されており、長者原台地からナイフ形石器が発見されています。縄文時代には中川原遺跡に住居跡が見つかりました。三和教田遺跡から縄文時代の土偶や弥生時代の環濠集落跡が見つかり、小迫辻原遺跡や大肥遺跡から弥生時代から古墳時代の住居跡や甕棺墓が見つかりました。

吹上遺跡
日田盆地を眺望する台地上にある弥生時代中期の遺跡です。甕棺墓や木棺墓など11基の墳墓が見つかり、副葬品として銅戈・鉄剣・勾玉・管玉などが見つかりました。

小迫辻原遺跡
弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて、台地北西側に3つの環濠集落、台地南東部に3基の方形環濠建物、台地中央を東西に区画する条溝などが順に造られました。
古墳時代、飛鳥時代
長者原台地などの丘陵部を中心に多数の古墳群が造営されました。国造として日下部氏が統治しました。市域には、魔物に襲われた日下部春里の娘を筑後国の草野太郎衛門が助け、娘と結婚した原の長者伝説が残されています。

薬師堂山古墳
5世紀前半に造営された円墳で、主体部は箱式石棺または竪穴式石室と考えられています。日田市域で最大規模を誇り、市内で唯一の円筒埴輪が出土しています。

城山古墳
須ノ原台地の南端にある前方後円墳です。古墳が造られた時期は定かではありませんが、古墳時代後期の可能性が高いようです。

朝日天神山古墳
6世紀前半に造営された2基の前方後円墳から構成されます。2号墳は県内最大規模で、1号墳からは全国的にも数少ない三輪玉が出土しました。

法恩寺山古墳群
法恩寺山に造営されたの7基の円墳群です。古墳時代後期に造営されており、古代日田の豪族日下部氏の墓地とも考えられています。

ガランドヤ古墳
6世紀中頃から後半にかけて造営された3基からなる円墳群で、そのうち2基が横穴式石室に彩色壁画を有している装飾古墳です。

穴観音古墳
長者原台地に唯一現存している7世紀はじめに築造された円墳です。石室には赤と緑の彩色を施した壁画が描かれている筑後川流域を代表する装飾古墳です。
奈良時代、平安時代
豊後国日田郡が成立し、日下部氏が国造から郡司へと転化していきました。日田は太宰府と豊後を結ぶ主要官道が置かれました。やがて日田郡司は日下部氏から大蔵姓日田氏へと代わり、平安時代に日田氏が大肥荘を安楽寺に寄進しています。
鎌倉時代、南北朝時代
日田氏は豊後国の有力御家人となり、豊後国守護の大友氏の傘下となりました。南北朝時代に日田氏は南朝方として菊池氏と連携しますが、北朝方の大友氏と対立して衰退していきました。

伝来寺庭園
鎌倉時代に作られたといわれる九州最古の庭園です。源頼朝の命で派遣された梶原景季らが造営した庭園で、枯山水的石組みが特徴です。
室町時代、安土桃山時代
大友氏が大蔵姓日田氏を滅ぼして大友系日田氏として再興しますが、天文17年(1548年)に滅亡しました。大友氏は日田の支配を確立しましたが、天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏が衰退していき、天正8年(1580年)に謀反を起こした田北紹鉄は、秋月に逃げる途中に日田郡五馬荘で討たれました。豊臣秀吉が九州征伐を成し遂げると、文禄2年(1593年)に豊臣秀吉の直轄地となりました。

亀山公園
文禄3年(1594年)に日田代官を務めた宮城豊盛が現在の亀山公園に日隈城を築き、翌年に入封した毛利高政が大規模な改修を行いました。
江戸時代
江戸幕府の天領として代官所が置かれ、久留米から日田に至る日田往還が整備されました。永山城の麓には豆田町が形成して陣屋が置かれました。関河岸跡には幕府領で収穫された年貢米が集められ、代官や郡代により掛屋に指定された商人は金利などで利益を得て、その蓄えは日田金と呼ばれました。

永山城跡
慶長元年(1596年)頃に小川光氏が築城した小さな山城で、丸山城と呼ばれていましたが、大阪の陣の戦功を得た石川忠総が入城して永山城と改名しました。

小鹿田焼の里
皿山周辺で採取される陶土を利用して、宝永2年(1705年)に柳瀬三右衛門が開窯して小鹿田焼の生産が行われるようになりました。

咸宜園跡
文化14年(1817年)に廣瀬淡窓が創設した私塾で、明治30年(1897年)まで続きました。近世日本最大規模の私塾で門下生は5千人を超えました。

廣瀬淡窓旧宅及び墓
咸宜園創設者である廣瀬淡窓ほか、歴代塾主やその家族13名の墓です。墓所は生前から廣瀬淡窓が選定し、長生園と名付けられました。

石坂石畳道
日田代官所と中津や宇佐四日市陣屋を結ぶ往還の一部です。嘉永3年(1850年)に京屋山田作兵衛常良が石工に頼んで工事したものです。

川原隧道と石畳
江戸時代末期に日田代官・塩谷大四郎の命で日田玖珠往還が改修されたとき、豆田町の豪商・廣瀬久兵衛が尽力して築成されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治政府は幕府領を管轄するため、慶長4年(1868年)に日田県を設置しました。明治2年(1869年)の全国的に農作物が不作となり、日田県の警備兵と五馬村の農民が衝突する日田県一揆に発展しました。明治4年(1871年)に日田県を含む8県が統合して大分県が成立しました。大正8年(1919年)に河津亀吉が発願して笹ヶ尾石仏群が造営されました。昭和15年(1940年)に日田市が誕生しました。