臼杵市

臼杵市は、大分県南東部に位置し豊予海峡方面へ楕円状に細長く延びた地形をしています。東は豊後水道に面した臼杵湾に臨み、南西部は鎮南山や姫岳など比較的険しい山稜が広がります。野津川が南西部を東西に流れ、臼杵川・末広川・熊崎川が臼杵湾に注ぎます。
概要
- 面積
- 291.20km2
- 人口
- 35,152人(2022年2月1日)
- 市の木
- カボス
- 市の花
- サルビア
- 地図
歴史
古くから人の営みが残される臼杵は、平安時代から鎌倉時代にかけて磨崖仏が造営されました。戦国時代に大友宗麟が南蛮貿易を行う拠点として臼杵城や街道を整備してして発展が進められ、江戸時代には臼杵藩稲葉家の城下町として海運を中心に繁栄しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代に中臼杵地区の東台や吉小野の東台遺跡から人の営みが残され、野津川流域では日当遺跡、新生遺跡、菅無田遺跡などの遺跡が残されています。戸室遺跡からは縄文時代の土器が出土し、井村の坊主山遺跡、諏訪字仲山の仲山遺跡からは弥生時代の青銅器などが出土しています。

白馬渓
臼杵川上流の支流にある渓谷です。天保3年(1832年)に臼杵藩の庭園石工・橋本真彦が商人清水善七の支援を得て豊受姫神を迎えて大神宮を建てました。

風連鍾乳洞
閉塞型の鍾乳洞で外気の侵入が少なく風化作用が妨げられたため、均整がとれた日本一の美しさと称えられる鍾乳洞です。
古墳時代、飛鳥時代

臼塚古墳
臼杵市最大の前方後円墳で、石造の武人(石甲)が臼と杵の形に似ていることから、うすきね様と呼ばれるようになり、臼杵の地名となりました。

下山古墳
芝尾地区南側の標高44メートルの丘陵に造営された前方後円墳で、下山古墳には家形石棺があり、くびれた部分には臼杵神社と同じ石甲が残ります。
奈良時代、平安時代
平安時代後期から室町時代初期にかけて臼杵磨崖仏が造営されました。養和元年(1181年)に臼杵惟隆や緒方惟栄が打倒平氏の兵を挙げると、元暦元年(1184年)に平家方の宇佐八幡宮を焼討ち、文治元年(1185年)に源氏方に兵船を提供していますが、翌年には臼杵惟隆と緒方惟栄が捕らえられて配流されています。
臼杵磨崖仏
地元に伝わる真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)では、長者の娘を弔うために仏像を彫らせたのが始まりとされます。平安時代に規模の大半が造営され、鎌倉時代に一部が追加されたと考えられています。石仏群は地名により、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、ホキ石仏第2群、山王山石仏、古園石仏の4群に分かれています。

ホキ石仏第二群
2龕からなり、第1龕には阿弥陀三尊像が両脇侍を伴い祀られ、第2龕は九品の弥陀と呼ばれ、如来像を中心として祀られています。

ホキ石仏第一群
平安時代から鎌倉期に至るまでの磨崖仏が20数体が並びます。第4龕は地蔵菩薩を中心として11体が並びます。

中尾五輪塔
嘉応2年(1170年)には中尾五輪塔のうち喜応銘が建造され、承安2年(1172年)には承安銘が造営されました。

日吉塔
鎌倉時代後期につくられた宝篋印塔で、台座からの高さは4メートルを超える日本最大の高さを誇る宝篋印塔です。
鎌倉時代、南北朝時代
建久7年(1196年)に大友能直が豊前国と豊後国守護となり鎮西奉行に任じられました。建武2年(1335年)の中先代の乱では大友氏、戸次氏、野上氏は北朝方の足利尊氏に与しました。文和4年/正平10年(1355年)に南朝の懐良親王が豊後国に侵入すると、延文3年/正平13年(1358年)に8代当主大友氏時らは高崎山城で懐良親王軍の攻撃を防ぎ、貞治元年/正平17年(1362年)には10代当主大友親世が今川了俊に協力して南朝方の勢力を抑えました。
室町時代、安土桃山時代
将軍足利義教は海外貿易を独占しようとして中国地方の大内盛見に命じて博多港を大友氏や少弐氏から奪おうとしました。12代当主大友持直はこれを破りますが、幕府軍は大内持世を総大将として豊後国に侵攻しました。永享7年(1435年)に大友持直は姫岳に籠り幕府軍と激しく戦い敗れました。
キリシタンの町
20代当主大友義鑑は嫡男義鎮ではなく三男の塩市丸を後継者にしようとしたため、天文19年(1550年)に二階崩れの変が起こり、大友義鑑は重傷を負い臼杵で亡くなり野津院寺小路の到明寺に葬られました。当主となる大友義鎮はキリシタン大名となり、永禄8年(1565年)に修道院を建て、天正8年(1580年)にノビシアド(修練院)ほか天正10年(1582年)には立派な教会も建てられました。
大友氏の改易
文禄2年(1593年)に豊臣秀吉の文禄の役に出陣した22代当主大友義統は、小西行長を置き去りにして撤退したことで改易されました。福原直高が臼杵城に入城しますが、慶長2年(1597年)に福原直高が府内に移されて太田一吉が臼杵城に入ります。慶長5年(1600年)にオランダ船リーフデ号が臼杵市佐志生に漂着しすると、英国人航海長ウイリアム・アダムスとオランダ人水先案内人ヤン・ヨーステンは大砲などの武器を操作する技術や西洋の新しい技術を持ち合わせていたことから、徳川家康の外交顧問に取り立てられました。

久木小野マンダラ石
文安3年(1446年)に僧侶良舜が大施主となり、姫岳合戦で戦死した人を弔うために胎蔵界大日如来を中心とした種子曼荼羅を彫刻しました。

臼杵城跡
永禄5年(1562年)に21代当主大友宗麟が海に囲まれた天然の要害に築いた城です。築城時は丹生嶋と呼ばれる孤島でした。

二王座歴史の道
大友宗麟が阿蘇山の火山灰が凝結した二王座を切り開いて道を通し、明やポルトガルの商人が行き交う国際的な商業都市として整備しました。

掻懐キリシタン墓
大友宗麟が府内から臼杵に移るとキリシタンの領民たちも移り住んで来ました。南津留掻懐の台地には2基の墓が残ります。

下藤地区キリシタン墓地
天正15年(1587年)に豊臣秀吉がバテレン追放令を発布して、天正17年(1589年)に豊後で殉教者が出ました。その一人である常珎の墓とされます。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの軍功により稲葉貞通が美濃国郡上八幡から入封し初代臼杵藩主となりました。臼杵藩は海運の要衝として繁栄していましたが、7代藩主稲葉恒通の代に幕府の命で三河国矢作橋の普請を請け負い財政が圧迫すると、享保17年(1732年)の享保の大飢饉と翌年の大火で藩の財政は破綻状態となりました。
臼杵藩の藩政改革
13代藩主稲葉幾通は天保2年(1831年)に家老村瀬通古を起用して倹約や殖産興業などの藩政改革を断行しました。天保13年(1842年)には藩校学古館を創設して藩内の教育にも力を入れましたが、百姓一揆が勃発するなど藩政は安定しないまま明治を迎えました。

龍原寺
稲葉貞通は船で下向してきた円誉上人を迎え入れると、慶長5年(1600年)に龍原寺を創建しました。

月桂寺
2代藩主稲葉典通は慶長13年(1608年)に月桂寺を建立して菩提寺としました。なお墓所の見学はできません。

鷺来ヶ迫温泉
白鷺と化した御山明神が臼杵町の禅師の夢枕に現れ、その話を聞いた臼杵藩が探し出して寛延3年(1750年)に開湯したとされます。効能がある薬泉は藩の献上湯となりました。

吉四六ランド
野津には吉四六さんとして親しまれた庄屋がいました。苗字帯刀を許されて広田吉右衛門と名乗り、一休や彦一と並ぶ三大とんち者として多くの民話が残されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で臼杵県を経て大分県となりました。明治10年(1877年)の西南戦争では薩軍が侵攻して臼杵隊と激しい攻防戦が繰り広げられ、臼杵も畳屋町、田町、平清水が戦火に焼かれました。

稲葉家下屋敷
明治35年(1902年)15代藩主稲葉久通の長男稲葉順通が帰郷に際して、有志により稲葉家下屋敷が建てられました。

野上弥生子文学記念館
小手川角三郎の長女・野上弥生子は、明治から昭和時代にかけて作家として活躍しました。実家の小手川酒造は文政2年(1855年)に創業してフンドーキン醤油の前身となりました。