津久見市

津久見市は大分県南東部に位置し豊後水道に面しています。津久見湾や豊後水道を主要漁場に漁業が発展してきました。山間部では古くからミカンの栽培が盛んで県内有数の産地となりました。石灰石の生産量日本一で質の高いセメントが製造されています。
概要
- 面積
- 79.48km2
- 人口
- 15,508人(2022年2月1日)
- 市の木
- ウバメガシ
- 市の花
- タチバナ
- 地図
歴史
津久見市はキリシタン大名大友宗麟が隠居の地と定めました。キリスト教による理想の国造りを目指して津久見の住民はことごとくキリシタン信者に改宗させられ、仏教寺院は全部焼かれたと言われます。江戸時代に石灰が発見されると藩の重要な財源となり、現在もなお一大産地としての地位を確立しています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
津久見市域では、青江川下流の丘陵部にある津久見門前遺跡を含めて、弥生時代から古墳時代の4カ所の遺跡が確認されています。
古墳時代、飛鳥時代
特に記録は見つけられませんでした。
奈良時代、平安時代
天平12年(740年)仁藤仁左衛門が青江の松川で小ミカンの栽培を始めました。保元2年(1157年)に仁藤又四郎が現在の上青江に移植して現在も生産されています。
鎌倉時代、南北朝時代
相模国愛甲郡の近藤能成の子能直は、相模国足柄上郡大友荘を支配していたことから大友能直と称しました。大友能直は建久7年(1196年)に豊後国・筑後守護職と鎮西奉行に任ぜられ、その孫大友頼泰は蒙古襲来に備えて豊後国に下向して土着して勢力を拡大していきました。津久見には大友勢力の水軍として津久見衆が支配しました。
室町時代、安土桃山時代
大友宗麟が隠居すると、キリスト教による理想の国造りを目指して津久見の住民はキリシタンに改宗させられ、仏教寺院は全部焼かれたと言われます。天正14年(1586年)に島津氏が侵攻すると津久見一帯で戦闘が繰り広げられました。島津氏の侵攻を臼杵城で守り抜いた大友宗麟は、

大友別館
大友宗麟が隠居して天正9年(1581年)に大友宗麟の別邸が置かれました。豊臣秀吉の九州征伐が終わると再び津久見に戻り天正15年(1587年)に生涯を閉じました。

宗麟公園
宗麟はキリスト教で葬られたとされますが、豊臣秀吉の禁止令で息子の大友義統が仏式で改葬し、寛政年間に旧家臣の末裔臼杵城豊が墓を建立しました。
江戸時代
津久見市域は北部は臼杵藩領、南部は佐伯藩領となりました。明和4年(1767年)に下青江で石灰が発見され、寛政3年(1791年)に臼杵の商人が石灰焼を藩に願い出ました。文久2年(1862年)には石灰役所が置かれ、石灰は臼杵藩の特産として藩の財源となりました。保土島では大庄屋格の庄屋がおり、海産物問屋や運上を集める藩の勘場、遠見番所が置かれました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で大分県が設置されました。明治10年(1877年)に海岸が埋立られて荷揚場が造営され、積出港としての整備が進めらました。大正5年(1916年)には鉄道開通して、海陸交通の連結で近代工場の進出が始まりました。
太平洋戦争と保戸島国民学校空爆
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)に保戸島国民学校を軍事施設と誤認した米軍は、保戸島を空襲して教師2名と児童124人が犠牲になりました。津久見町と日代村、四浦村及び離島の保戸島村が合併して、昭和26年(1951年)に津久見市が誕生しました。