竹田市

竹田市は大分県の南西部に位置し、くじゅう連山、阿蘇外輪山、祖母山麓に囲まれています。大野川の源流を有しており、一日に数万トンの湧出量ともいわれる湧水群を誇る水と緑があふれる自然豊かな地域です。市域は阿蘇くじゅう国立公園に指定されています。
概要
- 面積
- 477.53km2
- 人口
- 19,437人(2021年11月1日)
- 市の木
- もみじ
- 市の花
- みやまきりしま
- 市の鳥
- うぐいす
- 地図
歴史
竹田市は緒方惟栄が源義経を迎えるために岡城を築いたことに始まります。岡城は戦国時代に島津義弘が攻撃しても落ちない難攻不落の城で、江戸時代に岡藩が立藩すると居城として近代城郭に整備されました。岡藩は台地に用水路を通して水田を整備するなど現在の基礎を作りました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
竹田市西部は阿蘇外輪山から延びる火山性台地が広がり、河川の浸食により谷が形成されています。縄文時代前期の野鹿洞穴や古川洞穴で人びとが生活していました。縄文時代晩期から弥生時代中期は遺物が激減して空白の時代を迎えますが、やがて弥生時代後期から集落が造営されるようになりました。

古川洞穴
大野川流域の荻町や菅生台地の谷底で人びとが生活していた洞穴で、縄文時代早期から古墳時代に至る生活の痕跡が確認されました。

野鹿洞穴
大野川流域で最も古いとされる縄文時代の洞窟遺跡で、たくさんの遺物ともに埋葬された人の骨が出土しました。
古墳時代、飛鳥時代
菅生台地の石井入口遺跡、荻台地の古賀遺跡などの大集落からは、大野川上流域に特徴的な粗製甕のほか鉄器や青銅鏡片が出土しています。大分川上地域の高原地帯には弥生時代後期から古墳時代前期の前方後円墳1基、前方後方墳1基を含む原千人塚古墳群などが造営されました。古墳時代後期になると、台地上から河川流域の河岸段丘や谷底平野に市用横穴墓群など阿蘇溶結凝灰岩の岩壁に掘られた横穴墓が造営されるようになりました。

七ツ森古墳
前方後円墳2基と円墳2基の古墳群で、前方後円墳は古墳時代前期に造営されたとされます。銅鏡、勾玉、碧玉製釧などが出土しています。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立すると、竹田市のほぼ全域が直入郡に含まれました。郡衙の位置は不明ですが、駅等の施設と考えられる遺跡や集落跡から墨書土器や硯などの遺物が出土しています。直入郡は豊後大神氏の一族である緒方氏の本拠となり、緒方三郎惟栄に代表される武士団を形成していきました。

長湯温泉ガニ湯
長湯温泉は日本最大規模の炭酸泉で、村娘に恋をした大カニが戒律を破った僧侶と村娘に近づこうとして雷に撃たれて開湯した伝説が残されています。

岡城跡
文治元年(1185年)に緒方三郎惟栄が源義経を迎えるため築城しました。緒方惟栄は義経を助けた罪で大持浦で捕らえられ上野国沼田荘に配流となりました。
鎌倉時代、南北朝時代
建久7年(1196年)に大友能直が豊前国と豊後国守護となり鎮西奉行に任じられました。玖珠城を拠点とした大友貞順は、建武3年(1336年)に南朝方として反旗を翻し、直入郡を統治していた入田氏と出羽氏もこれに従いました。この戦いで入田氏と出羽氏は戦死し、その領地は正平13年/延文3年(1358年)に大野荘の地頭志賀氏が領することになり、応安2年(1369年)に志賀氏房が岡城の城主となりました。
室町時代、安土桃山時代
天正14年(1586年)に島津氏が侵攻すると志賀親次が撃退しました。文禄2年(1593年)に文禄の役の失態で大友義統が領地を没収されると志賀親次も城を去り、翌年に中川秀成が播磨国三木城から岡城に入りました。中川秀成は慶長元年(1596年)に総石垣の近代城郭への大改修を行いました。

長湯線彫磨崖仏
竹田市域は仏教が浸透して、長湯の岩肌に阿弥陀如来と釈迦如来の梵字を線刻した長湯線彫磨崖仏が造営されました。

法華院温泉
文明2年(1470年)には英彦山より養順法印が入山して九重山法華院白水寺と呼ばれる修験道場を建立して法華院温泉が開湯しました。

納池公園
白丹南山城主志賀義天が天然の日本式庭園として元徳2年(1330年)に遊楽地としました。江戸時代初期には加藤清正も訪れています。

キリシタン洞窟礼拝堂
21代当主大友宗麟の頃にキリスト教の布教が盛んに行われ、朽網では布教のための施設が設けられました。キリシタン洞窟礼拝堂はノミで祭壇状の掘り込みが作られています。

原のキリシタン墓碑
朽網と呼ばれた久住町や直入町には多くのキリシタンがおり、直入町原にはINRIと記されたキリシタン墓が現存しています。
江戸時代
初代岡藩主となる中川秀茂は、島津氏の侵攻や朝鮮出兵で荒廃した領内の建て直しを図りました。
3代藩主中川久清は中興の祖と呼ばれ、万治3年(1660年)に岡山藩から熊沢蕃山を招き、植林や水路開削などの経済政策を講じ、植林や緒方井路などの灌漑水利施設を建設しました。4代藩主中川久恒は岡山藩の儒医関幸甫を招いて藩士の教育のための学問所として私塾輔仁堂を開設しました。輔仁堂はのちに移転して由学館となりました。
また、

岡藩主中川家墓所
初代岡藩主中川秀茂は、慶長17年(1612年)に碧雲寺を建立して菩提寺としました。歴代藩主を務めた中川家の墓が残されます。

愛染堂
2代藩主中川久盛は日光東照宮造営奉行を務めていたことから、寛永12年(1635年)に連れて来た飛騨国の匠に愛染堂を建立させました。

西光寺山門
中川家が播磨国三木で菩提寺としていた寺院で、初代藩主中川秀成が竹田藩主となり延宝7年(1679年)に現在の地に移転してきました。

扇森稲荷神社
12代藩主中川久昭は夢枕に現れた神霊の忠告で暴漢の襲撃から身を守り、感謝を込めて元和2年(1616年)に創建した稲荷社を扇森稲荷神社と改称しました。

旧竹田荘
岡藩の藩医である田能村家の屋敷でした。田能村竹田は農民救済や学問振興を岡藩に訴えましたが、これが受け入れられないと隠居して各地を旅する画家となりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により岡藩は岡県となりますが、同年に他の県と統合されて大分県となりました。明治10年(1877年)の西南戦争では、薩軍が竹田町を占拠して政府軍と激しい戦闘となりました。

音無井路円形分水
明治25年(1892年)に耕地を広げるために造営されました。昭和11年(1936年)には明治岡本井路も完成しています。

広瀬神社
岡藩士廣瀬重武の次男廣瀬武夫は、明治37年(1904年)の日露戦争の第二次旅順港閉塞作戦で戦死を遂げ、昭和10年(1935年)に軍神として広瀬神社に祀られました。