歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

杵築市

大分県杵築市の杵築城跡

杵築市は大分県の北東部で国東半島の南部に位置し、南東は別府湾に面しています。北部はなだらかな山地に囲まれ、南部は美しい海岸線が続きます。温暖な気候を活かしたみかんや茶の栽培が盛んで、カキやシラスなどの海産物にも恵まれています。

概要

面積
280.08km2
人口
27,130人(2022年2月1日)
市の木
豊後梅
市の花
エビネ
地図

歴史

鎌倉時代に大友氏が豊後国に下向し、大友氏の一族が木付氏を名乗り統治しました。江戸時代に木付藩が成立し、城下町が整備されて商港として賑わいました。正徳2年(1712年)に幕府の朱印状に杵築と記されたことで現在の杵築に改められました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

3万年前から人びとの営みがあり、平河原池遺跡、久保畑遺跡、黒川遺跡、山香地域の目久保遺跡などで旧石器時代の遺跡が確認されています。縄文時代の稲荷山遺跡からは押型文土器と無文土器が出土し、神領貝塚や東貝塚から姫島産の黒曜石を使用した石器が出土しています。弥生時代の新宮遺跡からは小型仿製鏡が出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

杵築市域では平野や丘陵地を中心に200基以上の古墳が確認されています。小熊山古墳や御塔山古墳は海を臨むように立地しています。円筒形埴輪が出土した五田天神遺跡、金銅獅噛環頭大刀が出土したシラハゲ古墳、竪穴系横口式石室の名称を初めて使用した七双子古墳群が確認されています。

大分県杵築市の小熊山古墳

小熊山古墳

3世紀後半から4世紀初頭に造営された前方後円墳です。大分県で最大級の前方後円墳で、九州で最古級の円筒埴輪が出土しました。

大分県杵築市の御塔山古墳

御塔山古墳

5世紀前半に築造された大型の円墳で、墳丘の南側に5メートル程の長方形の張り出しがある造出付円墳です。九州では稀な囲形埴輪などが出土しています。

大分県杵築市の七双子古墳

七双子古墳

七双子の池の付近には9基の古墳が確認されています。このうち保存状態が良いのは古墳時代後期の横穴式石室で、溜池堤奥に残されています。

奈良時代、平安時代

律令体制が成立して、杵築市域は速見郡と国埼郡に属しました。平安時代に宇佐八幡宮や神宮寺弥勒寺の荘園となりました。山岳信仰と結びついた仏教文化として、武蔵、来縄、国東、田染、安岐、伊美の6つの郷にある寺院の六郷山が栄えました。

大分県杵築市の白鬚田原神社

白鬚田原神社

和銅3年(710年)から五穀豊穣と長寿祈願の思いを込めて、どぶろく祭りが開催されています。どぶろく祭りは、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

大分県杵築市の八幡奈多宮

八幡奈多宮

創建年は定かではありませんが、宇佐神宮と所縁が深く、神亀6年(729年)に宇佐神宮大宮司の宇佐公基により創建されたとされます。

大分県杵築市の宝陀寺

宝陀寺

大同3年(808年)に創建したとされています。山門は、寛永5年(1628年)に築造されたものですが、安土桃山時代の建築の遺風が認められます。

鎌倉時代、南北朝時代

武家社会の成立で六郷山の勢力と武士の勢力が争うようになりました。建保元年(1213年)に田原泰広が田原荘に入り、南北朝時代に田原直平が沓掛城を築城しました。田原氏は大友氏の攻撃を受けて断絶となりました。

大分県杵築市の財前家墓地

財前家墓地

財前一族の墓地で、国東塔や五重塔、板碑など111基が残されています。中央にある高さ3メートルの国東塔は、財前美濃守が生前に築造したものです。

大分県杵築市の田原家墓地

田原家墓地

田原氏は大友能直の子・大友泰広が田原別府を与えられたことに始まります。延元4年(1339年)に建立した田原家五重塔は田原直平の供養塔と伝えられます。

室町時代、安土桃山時代

建長元年(1249年)に大友親秀の六男・親重が木付を与えられ、木付氏を名乗るようになりました。木付親重は竹ノ尾城を築いて4代にわたり居城としました。応永元年(1394年)に木付頼直が木付城を築いて居城を移すと、文禄2年(1593年)に木付氏が滅びるまで居城となりました。木付城は細川忠興の家臣・松井康之などが受け継ぎますが、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで西軍の大友氏に攻められました。

大分県杵築市の杵築城跡

杵築城跡

応永元年(1394年)に木付頼直が海と断崖に囲まれる要害に築城しました。木付の地名は、江戸時代の朱印状で杵築と書かれたことで改められました。

江戸時代

寛永9年(1632年)に小笠原忠知が初代木付藩主となりますが、正保2年(1645年)に松平英親が入部してから松平家が10代にわたり藩主を務めました。松平英親は城下町の整備を行い、城下町の東端に位置する城鼻は商港として賑わいました。万治元年(1658年)に尾払池、延宝年間(1673~81年)に白水池を築造して新田開発を推進し、寛文年間(1661~73年)に輸入された七島藺の栽培も次第に盛んになりました。7代藩主・松平親賢は、三浦梅園の意見を踏まえて藩校学習館を創設するなど教育に力を入れました。

大分県杵築市の妙経寺庭園

妙経寺庭園

正徳2年(1712年)に松平重休から妙経寺の境内地が寄進されて移転し、その書院の北側に枯山水鑑賞式庭園が作庭されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)に杵築藩は杵築県となり、同年に大分県に移行しました。明治44年(1911年)に日豊本線の杵築駅が開業しました。 昭和30年(1955年)に杵築市が誕生しました。

大分県杵築市の野上家(周防屋)

野上家(周防屋)

昭和期に旅館経営を営んでいた商家のひとつです。敷地内の庭園は久留米市出身で九州一円で活動していた東森堂によるものです。