歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

豊後大野市

大分県豊後大野市の原尻の滝

豊後大野市は大分県の南西部に位置し、大野川の上中流域が貫流しています。9万年前の阿蘇山大噴火による大火砕流が阿蘇溶結凝灰岩を形成し、これを利用した石仏や石橋を造営する文化が生まれました。中山間地域ではありますが、大野川は肥沃な大地を形成し水田や田畑が広がります。

概要

面積
603.14km2
人口
32,879人(2022年2月1日)
市の木
クヌギ
市の花
ボタンザクラ
地図

歴史

豊後国守護となる大友氏は、従わない大野泰基を滅亡に追い込み一族を配置して統治を盤石なものとしました。大友氏が衰退すると豊臣秀吉の傘下として存続していましたが、朝鮮出兵の失態で大友氏は改易となり中川氏を藩主とする岡藩の統治下となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

9万年前の阿蘇山大噴火で阿蘇溶結凝灰岩を形成しました。阿蘇山の大爆発により鍾乳洞が水没して日本最大の水中鍾乳洞である稲積水中鍾乳洞が造営されています。

大分県豊後大野市の白山渓谷

白山渓谷

9万年前の阿蘇山大噴火で形成した阿蘇溶結凝灰岩が中津無礼川の浸食で岩肌が削られて柱状節理が見られるようになりました。

大分県豊後大野市の岩戸遺跡

岩戸遺跡

旧石器時代に造営された遺跡で、石でできた槍先やナイフ形石器のほか石で人を模るこけし形石偶や集石墓が出土しています。

古墳時代、飛鳥時代

肥沃な大地を形成した大野川やその支流では農耕が発達して集落を形成するようになりました。集落では首長が誕生して、首長の有力者は自身の墓として古墳を築造するようになりました。

大分県豊後大野市の大塚古墳

大塚古墳

上小坂区公民館裏の台地上に造営された古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘上の葺石と周溝が設けられます。

大分県豊後大野市の立野古墳

立野古墳

上田原立野地区に造営された前方後円墳で、墳丘から壺形埴輪や円筒埴輪などが出土しました。

大分県豊後大野市の坊ノ原古墳

坊ノ原古墳

大野川の支流で向原川が流れる桑原区羽部の山頂に造営された前方後円墳で、ひょうたん塚と呼ばれました。

大分県豊後大野市の秋葉鬼塚古墳

秋葉鬼塚古墳

竜王山と呼ばれる台地上に5世紀始めに造営された前方後円墳で、墳丘上には葺石が多く周溝が存在しています。

大分県豊後大野市の道ノ上古墳

道ノ上古墳

下赤嶺下区の台地先端上に造営された前方後円墳で、円筒埴輪や壺形埴輪の破片が出土しています。

大分県豊後大野市の重政古墳

重政古墳

重政原と呼ばれる台地に造営された前方後円墳で、二段築成の構造をする古墳です。

大分県豊後大野市の早尾原古墳

早尾原古墳

早尾原地区に造営された5世紀中期の直径30メートルほどの大型の円墳で、箱式石棺の内部より人骨や土器などが出土したと伝えられています。

大分県豊後大野市の竜ヶ鼻古墳

竜ヶ鼻古墳

大原台地の南西端上のつつじ公園の隣に造営された5世紀後半の前方後円墳で、円筒埴輪が出土しています。

奈良時代、平安時代

豊後国に大野郡が置かれ、三重付近に大野郡衙が置かれたとされます。官道には三重駅と小野駅が置かれました。古墳時代の欽明天皇29年(568年)に大神比義が豊国宇佐に入り、宣化天皇3年(538年)に伝来していた仏教を利用して統治を始め、欽明天皇32年(571年)から宇佐八幡宮の建立を始めました。

緒方惟栄

緒方惟栄は源頼朝が平家討伐に挙兵すると、養和元年(1181年)に平家から離反して平家を太宰府から追い落とし、壇ノ浦の戦いでは豊後水軍の兵船を提供しました。源頼朝と源義経が対立すると、緒方惟栄は源義経を助けたため捕らえられて上野国沼田に流罪となりました。

大分県豊後大野市の緒方川と緒方盆地の農村景観

緒方川と緒方盆地の農村景観

宇佐神宮の荘園である緒方荘に荘官として派遣された大神氏一族の緒方惟栄は、太宰府を抑えていた平重盛と主従関係を結んで勢力基盤を確立しました。

大分県豊後大野市の菅尾磨崖仏

菅尾磨崖仏

平安時代後期に作られた磨崖仏で、千手観音、薬師如来、阿弥陀如来、十一面観音と毘沙門天の5体が彫られています。

大分県豊後大野市の緒方宮迫東石仏

緒方宮迫東石仏

平安時代後期に緒方氏が造営した磨岩仏で、持国天、釈迦如来、不動明王が祀られています。

大分県豊後大野市の緒方宮迫西石仏

緒方宮迫西石仏

緒方宮迫東石仏と同様に平安時代後期に緒方氏が造営した磨岩仏で、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来が祀られています。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉幕府が成立すると、建久7年(1196年)に大友能直が豊前国と豊後国守護となり鎮西奉行に任じられました。大野荘の領主大野九郎泰基はこれに反発して大友能直と合戦になりました。大野泰基が攻め滅ぼされて田畑の作物が育たなくなると、祟りと恐れた人びとは大野泰基の霊を弔う仏塔などを各地に建てています。

大分県豊後大野市の神角寺

神角寺

大野荘の領主大野泰基は、大友能直に反抗して神角寺に陣を置いて戦いましたが、これに敗れて神角寺で自害しました。

大分県豊後大野市の普光寺磨崖仏

普光寺磨崖仏

高さ11メートルの日本最大級の磨崖仏で、不動明王を中心に矜羯羅童子と制咤迦童子が両脇に控え、右手には多聞天、弁才天が刻まれています。

大分県豊後大野市の犬飼石仏

犬飼石仏

大野川流域の阿蘇溶結凝灰岩に造営された鎌倉時代後期の磨崖仏で、不動明王坐像を中心に制多迦童子と矜羯羅童子を従えています。

大分県豊後大野市の犬飼五輪塔群

犬飼五輪塔群

犬飼石仏の右手の岩壁には、16個の小さな掘り込みに一石で作られた五輪塔が安置しています。

室町時代、安土桃山時代

大野郡一萬田村を領していた大友家庶流の一萬田景直は、大野郷上村地頭に任ぜられて館地区の台地上に居館を置いて統治しました。21代当主大友宗麟はキリスト教を信奉し永禄12年(1569年)に井田(千歳村)と三重で170名がキリシタン洗礼を受けて下赤嶺キリシタン墓地も造営されました。

島津氏の侵攻と九州征伐

天正14年(1586年)に島津氏が侵攻すると入田宗和のほか一萬田鎮実らも島津氏に寝返り、島津家久は松尾城を豊後侵攻の拠点としました。大友家の要請により豊臣秀吉が九州征伐を開始すると、島津家久は仙石秀久を総大将とする第一次征討軍を戸次川の戦いで破り、豊臣秀吉本隊が侵攻して来ると松尾城を放棄して本国に戻りました。

江戸時代

江戸時代になると、豊後大野市域はほとんどが岡藩に属して一部を臼杵藩が統治していました。

大分県豊後大野市の参勤交代道路

参勤交代道路

石畳の道の両側にあるカマボコ状の蒲鉾石は参勤交代で石の上部にあけた穴に棒を立て、目隠しの幕が張られたと言われます。

大分県豊後大野市の犬飼港跡

犬飼港跡

中興の祖と呼ばれる3代藩主中川久清は、物資輸送や参勤交代など河川交通の要衝として明暦2年(1656年)に犬飼港を整備しました。

大分県豊後大野市の緒方井路

緒方井路

4代藩主中川久成は農業用水路として寛永21年(1645年)に緒方上井路を寛文11年(1671年)に緒方下井路の開削して緒方井路を整備して農地を拡大しました。

大分県豊後大野市の井上主水左衛門並古・並増墓所

井上主水左衛門並古・並増墓所

10代藩主中川久貞は天明6年(1786年)から井上並古を登用して助合制度の設置や郷村再建、藩札発行による財政改革を行いました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で岡藩は岡県となりますが、同年に他の県と統合されて大分県となりました。明治10年(1877年)の西南戦争では、薩軍が侵攻して宇目方面に退却するまで戦闘が起こりました。昭和14年(1939年)に満蒙開拓の指導者を養成する大野拓殖農林学校が置かれました。

大分県豊後大野市の蝙蝠滝

蝙蝠滝

近代化を推進する明治政府は、明治8年(1875年)に上流部への舟運の難所である蝙蝠滝付近に舟路が築かれました。

大分県豊後大野市の沈堕滝

沈堕滝

明治から大正時代に沈堕滝に発電所堰堤が建設されて発電事業が行われました。