速見郡

速見郡は大分県のほぼ中央に位置し、別府湾に面した日出町で構成されます。温暖な気候と豊かな海に恵まれ、古くから漁業と農業で栄えてきました。別府湾の城下海岸で獲れる城下カレイや新鮮なシラスなど海産物や海を眺めながら入浴できる日出温泉が魅力です。
概要
- 面積
- 73.32km2
- 人口
- 27,558人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 日出町
- 地図
歴史
豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の兄である木下延俊は、関ヶ原の戦いの戦功で豊後国日出3万石を与えられました。木下延俊は日出城を築城して拠点とし、出藩を立藩しました。木下家は明治時代に至るまで統治を行いました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人の営みが残されています。縄文時代早期の集落遺跡である早水台遺跡の下層からは、前期旧石器の論争を引き起こした石器群が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
藤原郷や大神郷の有力者が安養寺・経塚古墳を造営しました。
奈良時代、平安時代
律令体制の成立により速見郡が成立し、会下遺跡は官衙関連遺跡として知られています。
鎌倉時代、南北朝時代
豊後国守護の大友氏が支配しました。
室町時代、安土桃山時代
大友氏の拠点である府内の北の守りとして、鹿鳴越城が築城されました。周防国の大内氏との攻防戦が繰り広げられました。天文20年(1551年)に山口で布教していたフランシスコ・ザビエルは、大友義鎮に招かれて日出の西鹿鳴越道を通り府内へと入りました。

ザビエルの道
鹿鳴越連山につけられた西鹿鳴越道といわれる古道は、フランシスコ・ザビエルが府内の大友宗麟と会見する途上に歩いた道といわれています。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、翌年に木下家により日出藩が立藩しました。藩祖・木下延俊は日出城を築城し、康徳山松屋寺を菩提寺としました。3代藩主・木下俊長は文教や殖産の振興に力を注ぎ、豊後三賢のひとり帆足萬里を輩出し、藩校致道館の創設に繋がります。

日出城址
関ヶ原の戦いの功績により木下延俊に豊前国日出が与えられました。木下延俊は初代日出藩主となり、慶長7年(1602年)に日出城を築城しました。

松屋寺
慶長12年(1607年)に日出藩初代藩主・木下延俊が西明寺を改名して菩提寺としました。日出藩歴代藩主や親族ら52基の墓が林立しています。

帆足万里墓
帆足萬里は三浦梅園と廣瀬淡窓とともに豊後の三賢と称されます。天保3年(1832年)に藩主木下俊敦に取り立てられ藩財政の再建に功績を残しました。

致道館
安政5年(1858年)に藩主木下俊程の命で日出城二ノ丸に開校した藩校です。門を含め家屋全体が旧態のまま残されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
福岡出身の実業家・成清博愛が採掘した馬上金山は、日本屈指の産金量を誇る金山に成長しました。アジア太平洋戦争末期には特殊兵器・回天の訓練基地となり、終戦に至るまで別府湾で厳しい訓練が行われました。

龍泉寺(瀧廉太郎の墓)
明治時代の作曲家・瀧廉太郎は、日出藩木下家の家老を務めていた家柄でした。死去後に大分市の万寿寺に葬られましたが、先祖が眠る龍泉寺に移されました。

的山荘
実業家の成清博愛は、明治43年(1910年)に馬上金山の採鉱をはじめ財を成しました。大正4年(1915年)に成清博愛は邸宅を完成させました。

回天大神訓練基地跡
昭和20年(1945年)に大神訓練基地が整備され、大神突撃隊が開隊しました。大神基地で訓練を受けた兵士は出撃することなく終戦を迎えました。