玖珠郡

玖珠郡は大分県の西部に位置する雄大な自然に恵まれた地域です。南部の九重連山をはじめ伐株山などの山地で囲まれ、玖珠盆地に市街地が形成しています。玖珠町は童話作家・久留島武彦の出身地であることから、童話の里として知られています。
概要
- 面積
- 557.88km2
- 人口
- 22,603人(2021年11月1日)
- 含む町村
- 九重町、玖珠町
- 地図
歴史
一ノ宮章明親王の姫と恋仲となる清原正高は、玖珠に左遷となりました。清原正高の子孫は玖珠郡衆と呼ばれる武士団を形成し、豊後守護の大友氏に従い統治しました。江戸時代に久留島氏が森藩を立藩し、明治時代に至るまで統治しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
玖珠は旧石器時代以前から人が住んでおり、ナイフ形石器が出土しています。弥生時代には四日市遺跡に集落を形成しました。

九酔渓
玖珠川流域の両岸2キロに渡り断崖絶壁が続く美しい渓谷です。渓谷全体が赤や黄色に色づく様子は圧巻で、九州の紅葉の名所として知られます。
古墳時代、飛鳥時代
玖珠川流域の丘陵に古墳が造営され、石室に同心円文や円文などの模様が描かれている装飾古墳が多く存在しています。

鬼塚古墳
伐株山の西麓に開ける丘陵に立地する6世紀後半に造営されたとみられる円墳で、石室の奥壁には三重の同心円文や円文などが描かれています。

鬼ヶ城古墳
小岩扇山から南西に伸びる丘陵に立地する円墳で、石室の壁面に線刻で文様が描かれた装飾古墳です。7世紀初頭前後に造営されたと考えられています。
奈良時代、平安時代
天延元年(973年)に一ノ宮章明親王の姫小松女院と恋に落ちた清原正高が玖珠に左遷されました。清原正高は山田郷の地頭矢野兼久の娘と結ばれて清原正道が生まれ、その子たちが豊後清原氏が武士団を形成しました。

三日月の滝
小松女院と恋仲となる清原正高が玖珠に左遷されると、小松女院は清原正高を追いかけますが、結婚していることを知り三日月の滝に身を投げました。
鎌倉時代、南北朝時代
大友氏のもと清原正高を始祖とする玖珠郡衆が治めました。元軍が襲来した文禄の役や弘安の役で玖珠郡衆は大友氏に従い参戦しています。

瑞巌寺磨崖仏
鎌倉時代又は室町時代に造営された磨崖仏です。中央に不動明王を配置し、左手に増長天と制吒迦童子、右手に多聞天と矜羯羅童子が配されています。

角牟礼城跡
鎌倉時代に玖珠郡衆の森朝通が築城した森氏の居城です。戦国時代に大友氏が指導して改修が加えられ、文禄3年(1594年)に毛利高政が入国して近世城郭へ改修されました。
室町時代、安土桃山時代
天正15年(1587年)に島津氏の6千の兵が角牟礼城を攻めました。籠城兵1千人は奮戦して猛攻を凌ぎました。 文禄2年(1593年)に大友義統が改易されて毛利高政が入り、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、毛利高政は佐伯藩へ転封となりました。
江戸時代
関ヶ原の戦いで西軍に与して流浪の身となる来島長親は、福島正則や来島康親の取り成しで玖珠の地を与えられ、慶長6年(1601年)に森藩を立藩しました。長男・来島通春は、元和2年(1616年)に姓を久留島に改めました。

旧久留島氏庭園(森陣屋)
文政12年(1829年)に8代藩主・久留島通嘉が末廣神社の社殿を完成させたとき、一体的に造営した3つからなる日本庭園です。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和9年(1934年)に久大線全線開通と同時に旧豊後森機関庫が完成しました。旧豊後森機関庫は軍事輸送の拠点となり、昭和20年(1945年)に米軍の艦載機グラマンの機銃掃射を受けました。

旧豊後森機関庫
久大線の開通に合わせて完成した機関庫です。第2次世界大戦で軍事拠点となり、米軍機の機銃掃射を受けました。外壁には今もなお弾痕が残されています。

九重夢大吊橋
平成18年(2006年)に開通した九酔渓の鳴子川渓谷が一望できる吊橋です。歩道専用の吊橋として日本一の高さを誇り、完成時は長さも日本一を誇りました。